ほんとうに暑い日が続きます。連日の40度近い猛暑、しかも朝から暑く、夜も温度が落ちないというなかで、かなり体力を消耗させています。
いろいろ、思うようには行きません。ちょっとなあ、ということが積み重なる日々。
ちょっと、ショックなこともあります。それなりに知る研究者の方が、それはでの自説を180度転換させて、われわれとはまったく違う主張をしていることに遭遇したり。
たしかにものすごく難しい時代です。とても展望を持ちづらい局面でもあります。そういうときだからこそ、原理とか哲学とかいうものが大事なのだと思う。そのときに、いま議論されていることと、何が違うのだろうということも考えます。いろいろなことをつかまなければなりません。もしかしたら、ボクはとんでもないことを考えているのかもしれません(苦笑)。

宮間さんの『国葬の成立 明治国家と「功臣」の死』を読みました。

地道で実証的な本が、突然、注目をあびています。とても、面白い本です。明治の天皇制政府の確立していく過程は、治安とか、教育とか、政治制度という点ではいろいろ学んだことはありますが、死の儀式化という角度での注目、それも天皇の死ではなく、功臣のそれです。儀式化に国民を巻き込み、支配の強化からやがて戦争に動員する仕組みをつくりあげていく過程がよくわかります。そもそも、国葬はそのようにつくられたのです。それが、天皇制政府の終焉とともになくなったはずなのに……。
いつもお世話になっている憲法学者たちが声明を発表した。
政府による安倍元⾸相の国葬の決定は、⽇本国憲法に反する
―憲法研究者による声明―
2022年7⽉22⽇、政府は閣議決定をもって、9⽉27⽇(⽕)に東京都千代⽥区の⽇本武道館において、安倍元総理⼤⾂の葬儀を国葬という形式で執り⾏うと発表し、遺族もそれを承諾した。岸⽥⾸相が葬儀委員⻑を務め、これに掛かる経費は全て本年度の予備費から⽀出するとしている。われわれは憲法学を専攻し研究する者として、この国葬が⾏われた場合には、それが単に法的根拠を持たないだけでなく、⽇本国憲法に⼿続的にも実体的にも違反することになると危惧し、この国葬の実⾏に反対する。
1 明治憲法下では、「国葬令」(1926年公布)が存在し、皇族と「国家に偉功ある者」に対して国葬が⾏われてきた。国葬令の適⽤は、⼤正天皇の国葬に合わせることになった。天皇の思し召しによって、国葬が実施され、国⺠は喪に服することを義務付けられた。国葬という形式は、⼭本五⼗六の時のように、何よりも明治憲法の軍国化を促す効⽤をもたらしてきたが、この「国葬令」は戦後の⽇本国憲法の施⾏と同時に1947年に失効している。国葬令は、なによりも憲法14条の平等主義に反するものであり、憲法に規定された基本的⼈権の保障に反するからである。戦後は吉⽥茂元⾸相の国葬があったが、これは「戦後復興に尽くした」との理由による例外的なものであった。佐藤栄作元⾸相の時も、国葬が提案されたが、憲法の番⼈である内閣法制局が認めなかったことにより、国葬案は実施されなかった。⼤平正芳元⾸相の時より、政府と⾃⺠党による合同葬の形式が慣⾏的に続いてきた。
2 ⻑い間封印されてきた国葬が、岸⽥内閣によって以下の理由をもって実⾏されようとしている。それは「⼀ 憲政史上最⻑になる8年8か⽉にわたり、内閣総理⼤⾂の重責を担った ⼆ 東⽇本⼤震災からの復興、⽇本経済の再⽣、⽇⽶関係を基軸とした外交の展開等の⼤きな実績を残した 三 外国⾸脳を含む関係社会からの⾼い評価 四 選挙中の蛮⾏による急逝」と説明されている。しかし、この⼀~三に評されるように、安倍内閣はそれほどに評価すべきことを⾏ってきたのであろうか。1回⽬の任期(第90代内閣総理⼤⾂)の時は、教育基本法の改悪と防衛庁の省への昇格を実⾏したが、内閣スキャンダルと⾃⾝の病気を理由にして退いた。さらに、⻑期に及ぶ2回⽬の任期(第96~98代内閣総理⼤⾂)は、憲法に違反する法改正(組織犯罪法における共謀罪、安全保障関連法等)を繰り返しながら、「モリ・カケ・サクラ」と⾔われたような⾦銭疑惑を残した。そして再度、病気を理由に職務を放り出し、多くの疑惑に正⾯から答えることなく、⾸相の座を明け渡した。とくに財務省の記録を改ざんし、⾃殺者を⽣み出すまでして事実を隠ぺいした安倍元⾸相の疑惑は⼤きいが、もはや闇の中にある。他⽅で、外交に多⼤な功績を残したとあるが、これまでの懸念材料であった「領⼟・基地・朝鮮半島問題」に⼤きな進展はない。安倍内閣は憲法の改正を望んできたが、現実に憲法の核⼼部分は徐々に削られてきたことになる。
3 岸⽥内閣は、この国葬を今度は内閣法制局の⽰唆を受けて、内閣府設置法の4条にある「所掌事務」として形式的に実施しようとしている。国葬の実施は政府が主体となる国事⾏為であるから明確な法的根拠を必要としている。ところが、法4条3項33号は、「国の儀式並びに内閣の⾏う儀式及び⾏事に関する事務に関すること」を内閣府が関わりうることを定めた限りであって、国葬という実体を定めているわけではない。国葬の実施はいかなる場合になされるかという要件を定めた法規があることを前提としてでなければ、この法4条3項33号の実施は不可能である。さらに、国の最⾼機関である国会が関わる余地は、内閣府設置法からはなんら⾒えてこない。ここに⼿続き上の明⽩な違反があり、これは法治主義に違反することになる。しかし、形式だけを整えても、国葬は実体的に憲法に反する問題をもっている。
4 内閣官房⻑官の説明では、「国葬の当⽇公⽴学校は休⽇にはしない」とあるが、政府が実施しテレビ放映による映像が流れることによって、社会が受ける反応には⼤きな影響が起こりうる。国⺠に時間を指定して哀悼の気持ちを求め、公的機関での半旗の推奨もありうる。現時点で、⽂部科学⼤⾂が国公⽴⼤学に求めている「国旗掲揚」の⾏政指導が、強く、広範囲で実施されるおそれがある。こうしたことは全て⽇本国憲法19条が保障する「思想・良⼼の⾃由」に抵触することになりかねない。この⾃由は「内⼼の⾃由」に当たり、個⼈の思考の核⼼部分を保障するものであり、これへの制約は厳しく審査されなければならない。とくに、学校⾏事として国葬への参加が強制されることのないように気を付けなければならない。場合によっては、憲法20条に保障された信教の⾃由や21条に保障された表現の⾃由を侵害することにもなりうる。こうした国葬は強制がなんらないと⾔われるが、⾃⼰の信念に反する国葬が実施されるという事実をもって、国⺠の各⼈がもつ⼈としての在り⽅、「個⼈としての尊重」(憲法13条)への侵害が⽣じるおそれがある。
5 財政的には現在試算がされているが、これを財務⼤⾂は予備費から⽀出するとしている。しかし、警備も徹底するとなればかなりな費⽤を必要とするであろう。⾦額の問題もあるが、問題は予備費の使われ⽅にある。本来は⼤災害、コロナ対応等の不測の事態にあてるべきであり、国会での審議を求めるのが筋であろう(憲法83条)。また、公費をすでに私⼈となってしまった個⼈の死に振り向けることには、その妥当性がないといえるのではないだろうか(憲法89条)。宗教性を払しょくして⾏うとしているが、個⼈の死に関係することであるから宗教儀式の⼀環と受け⽌める国⺠も多いはずである。これを国家が私⼈に代わって国費で実施することが異常なのであり、国が実施することに格別の政治的な効⽤があると推定されてしまう(憲法20条3項、89条の政教分離原則)。もしも、国葬をもって死者を必要以上に美化し、それを国⺠の記憶に残し、政治的効果を意図し、現政権の継続を願うものであれば、そのことこそ国家の⾏為を厳格に制約しようとする、⽇本国憲法の⽴憲主義の構造に反することになるおそれがあると考えられる。
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