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2020/07/27

戦争の体験と記憶を考える――「朝日」(戦後75年 空から見た戦跡:1)兵庫・鶉野飛行場跡 若い命、ここから飛び立った

 今日は工場籠城2日目。四日も間があくと、やっぱり調子が狂う。それでも、乗り切って、終了。楽しみにしてくださいね、みなさん。

 ベランダの花はかなり咲き誇るようになってきた。

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 さて、今日の朝日の夕刊トップの記事。

(戦後75年 空から見た戦跡:1)兵庫・鶉野飛行場跡 若い命、ここから飛び立った(朝日新聞)
 青々と作物が育つ田畑に、約1200メートルの滑走路跡がまっすぐ延びる。7月の第3日曜日、普段は静かな鶉野(うずらの)飛行場跡(兵庫県加西〈かさい〉市)に、朝から人が集まってくる。この日は第2次世界大戦で使われた戦闘機「紫電改(しでんかい)」の実物大模型の一般公開日。機体が出されると、来場者が一斉に取り囲んだ。興味津々の男の子、若いカップル、戦争経験者の男性……。じっと見入ったり、写真を撮ったり。鶉野平和祈念の碑苑(ひえん)保存会の上谷昭夫さん(81)は来場者に語りかけた。「なぜここに戦闘機があると思いますか?」

 鶉野飛行場はかつて旧日本海軍の基地だった。ここはパイロットの訓練拠点と戦闘機組み立て工場の、二つの役割を持っていた。

 1943年3月、住民らを立ち退かせて土の滑走路の建設を開始。10月には戦闘機のパイロットを養成する姫路海軍航空隊が発足した。全国から集まった練習生は、約3カ月間の実戦想定の訓練を経て、前線へと送り出された。約500人がここで訓練を積んだという。

 戦局悪化で沖縄戦が現実味を帯びた45年2月には、教官や練習生を巻き込んで特攻隊の「白鷺(はくろ)隊」が編成された。隊名は姫路城にちなんだ。3月23日、72人が宇佐基地(大分県)に向けて出発し、さらに串良(くしら)基地(鹿児島県)へ前進。4月6日から5月にかけて計6回出撃し、63人が命を落とした。

 一方、44年には、戦闘機「紫電」「紫電改」の増産を目指す川西航空機(現・新明和工業)が組み立て工場を開設した。今も残るコンクリート製の滑走路は、完成した戦闘機の試験飛行に使われた。基準を満たせば旧海軍に引き渡された。紫電466機、紫電改46機が組み立てられた。……

 この記事に対して、敬愛する歴史教育者の方が、「特攻への批判的な見地が全くない」とまっとうな批判をしていた。それはまったくそうなのだ。そこで、次のようなことを考えた。

 戦跡は戦跡でしかない。そこから、どのような記憶をつくっていくのか。そのことが問われるのだ。そのためにも、体験の構造をしっかりみておく必要がある。体験の意味を考える必要がある。

 戦後75年。体験はどんどん遠くなる。そこで、つくった雑誌でも、その体験と記憶の構造をあえて、課題にしてみたのだけどね。

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