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2017/09/16

ハンセン病刑務所、保存断念 隔離政策の象徴解体へ

 うーん。これは……。

ハンセン病刑務所、保存断念 隔離政策の象徴解体へ(朝日新聞)

 国内でただ一つのハンセン病患者専用の刑務所として使われた「菊池医療刑務支所」(熊本県合志市)。約20年前に閉鎖された元庁舎が、姿を消そうとしている。現地で学校の建設計画が進み、熊本地震で安全面への不安も生じたため、元患者らが保存を断念した。
 国内最大のハンセン病療養所・菊池恵楓園の向かいにあるコンクリート造り2階建ての白い建物。1986年に建て替えられた菊池医療刑務支所の元庁舎だ。
 53年に熊本刑務所の支所として設置された。同年にできた、らい予防法に基づく隔離政策やハンセン病への偏見から、犯罪に関わった患者の受け入れを一般の刑務所が拒んだことなどが背景にあったとされる。
 当時の宮崎松記・恵楓園長は手記「癩(らい)刑務所の出来るまで」(53年)に、こう記した。「癩(らい)患者の犯罪があつた場合も、警察や検察当局では矢張(やは)りこれを非常に怖(おそ)れ嫌がり、又(また)一方刑務所の方でも健康なものと一緒に収容することは困ると(中略)療養所に送り込まれることが屢々(しばしば)あつた」
 菊池恵楓園入所者自治会長、志村康さん(84)は「ハンセン病専用の刑務所がつくられること自体、当時の根強い差別や恐怖心を表している」と言う。法務省によると、らい予防法廃止に伴い97年に閉鎖されるまでに計171人を収監。記録に残る限り、54年末には最も多い19人の患者がいた。
 旧庁舎では、ハンセン病患者を隔離した場所で裁く「特別法廷」もたびたび開かれた。48~72年の95件のうち、同支所と恵楓園で35件。患者とされた男性が無実を訴えながら殺人罪で死刑になった「菊池事件」の裁判も、ここで行われた。
 閉鎖後、刑務支所の元庁舎の建物だけを残し更地になった。管理する九州財務局は2008年、隣接する菊池恵楓園の旧宿舎跡地と併せて競売にかけた。だが恵楓園入所者らが厚生労働省などに保存を要求。元庁舎の土地は対象から外れた。そのほかの土地約5万6千平方メートルについて、地元の合志市が小中一貫校の建設用地として取得を要望。18年中に九州財務局との売買契約がまとまる見込みだ。
 恵楓園の入所者は、刑務支所を運営した法務省などに対し、ハンセン病の歴史を学ぶ場として元庁舎の有効活用を求めたが、国は保存に動かなかった。老朽化が進み、昨年4月の熊本地震後は外から見えるひびも入った。学校建設が進めば校庭に元庁舎が残ることになり、入所者自治会は「子どもの教育環境を大事にしたい」と、解体もやむを得ないとの結論を出した。
 6月に東京であった厚労省との協議で、志村さんは元庁舎の保存を諦める方針を伝えた。そのうえで、跡地にモニュメントを建てることや獄舎の一部を恵楓園の資料館に展示することを要望した。「ハンセン病だけの刑務所をつくったのは、世界で日本だけと再認識してほしい」と訴えた。
 自治会副会長の太田明さん(73)は「差別が起きていた証拠が一つ失われることになり、残念だ。新しくできる学校では、ここがどういう場所であったのかを学び、考える機会を設けてほしい」と話した。……

 ハンセン病問題はまだ終わっていない。「特別法廷」の「菊池事件」をめぐる裁判もはじまったばかりなのに。
 「負の遺産」に対して、もっと向き合うべきだ。そうしてこそ、人権が花開くような日本になっていけるはずなのに。全生園だって、貴重な「負の遺産」が、朽ち果てるばかりになっている。そのことは、ボクらの人権の未来と表裏一体。ボクら自身の問題として考えないといけないと思う。

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