徳島大空襲 4日で71年 戦争、国の方針は矛盾 患者救った院長決断
戦後71年。憲法が、戦後が曲がり角にある時だから、考えたいなあ。日本に生きる人にとっての最大の戦争体験でもある空襲。
徳島大空襲 4日で71年 戦争、国の方針は矛盾 患者救った院長決断(毎日新聞)徳島市で1945年7月4日、約1000人が死亡したとされる徳島大空襲で、旧徳島医学専門学校付属医院(現徳島大学病院)は全焼しながら患者と職員は無事だった。背景には、国の方針に従わず、患者らを疎開、避難させた院長の決断があった。それから71年。看護師だった二階フミ子さん(88)=同市新内町=は決意を新たにしている。「戦争では国の方針は矛盾だらけ。助けられた命を大切にして、戦争はだめだと伝えていきたい」
付属医院は当時、徳島市役所にほど近い市中心部にあり、院長は小山順治さん(故人)だった。生前の回想録で「170名ばかりの患者にまず退院を勧告した。(略)郡部の病院へ替わった患者が大部分」と記している。この措置について、二階さんは国の許可を得ていなかったと推測する。各地で空襲が相次いでいた45年6月ごろ、「院長から『焼夷(しょうい)弾は油だからバケツリレーでは消せない。患者には転院してもらう』と指示された」と事務長や婦長が話すのを聞いたからだ。「事務長は『外で言ったら院長の首が飛ぶ。シー、やからな』と人さし指を立てて、口止めした」と振り返る。
41年改正の防空法では、国民に本土空襲での消火活動を命じていた。防空法に詳しい大前治弁護士によると、高齢者や子供、傷病者ら「老幼病者」は施行令で退去禁止の例外とされたが、逃げることは戦意喪失につながるとして、発言も含めて取り締まり対象となったという。
大空襲前に入院患者の大半は疎開を終え、空襲当日に残っていた約40人の患者や医師らは急いで避難した。詰め所勤務だった同市住吉、志満香芽衣さん(91)は「婦長が火を消すよりも川か山に逃げなさいと指示していた」と証言、「助けられた」と感謝する。
大前弁護士は「学童疎開や一部の建物疎開以外は事実上、足止めされた状態だった。焼夷弾は恐れる必要がないと宣伝した防空法が犠牲者を増大させた」と指摘する。二階さんは避難した病院近くの助任川のほとりで、黒こげになった遺体が浮いているのを見た。疎開禁止を忠実に守った人の行く末のように感じたといい、「71年が経過しても、戦争のむごたらしさは忘れられない」と語った。
徳島ではこんなドラマがあったのか。どこまでも、人権と人命を無視する国家とそれがおこなう戦争。そこで発揮される良識と良心。それが歴史のなかで織り込まれている。
歴史をいろいろ追いかけたいなあ。
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