国際法・憲法と集団的自衛権
作家の玄侑宗久さんが「モヤモヤする気分の内実がはっきりわかり、『平和』を希求する意思が明確になりました」という推薦の言葉をよせているが、まさにそのとおりの本だと思う。ボクも、いつも仕事でお世話になっている、松井、森という国際法・憲法の世界の文字通り重鎮が、弁護士さんを相手の勉強会で語ったものを、さらにわかりやすくQ&Aで整理をしている。きちんと、理論のポイントを押さえながら、わかりやすさを追及しているのが特徴か。集団的自衛権行使容認から安保法制にいたる議論は、彼らの側は、意識的に、感情的、情緒的な議論をしかけてくる。それを理論的にきちんの批判して、ある種の「気分」を払しょくすることが大事。松井さんは、国際法の世界のなかで、戦後の国連憲章を軸としたその発展が、武力の行使の禁止を原則としてすすんでいることを明らかにしながら、そのなかでの例外、制限されたものとしての集団的自衛権の位置を確認する。いかに、そういう世界のながれから逸脱した日本政府の議論か。森さんは、憲法学では9条はどのように議論されてきたかを踏まえながら、今回の解釈改憲が、いかに許されないものかをのべる。これまでのつじつま合わせの「解釈」をさらに逸脱する「解釈」が、いかに論理的に成り立たないものになってきているのかがわかる。そこから、今回の事態が、憲法からも、国際社会からも、たくさんの矛盾を抱えることになる。基本的なところから押さえた本書は、いよいよ国会審議がはじまったいまでこそ、読まれるべきものだと思った。
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国際法の世界のなかで、戦後の国連憲章を軸としたその発展が、武力の行使の禁止を原則としてすすんでいることを明らかにしながら、そのなかでの例外、制限されたものとしての集団的自衛権の位置を確認する。
これが主訴なのだとするならば、「国際法上における要件としては、原則として武力行使の禁止とするものの、例外的に、制限された中での集団的自衛権というものを認めるものである」というのが、本質的な見立てなのではないかとするならば、この合意に基づき、憲法9条による戦争の放棄が定められたものであり、国際法上における個別的自衛権そのものについては、放棄するものではないということが、アメリカから見た日本国に対する本質的な見立てそのものであるとするならば、これが仮に憲法9条の中に、「第3項として、集団的自衛権の行使はこれを認めない」とする条文があったとするならば、自衛隊そのものについては、個別的自衛権として合憲であるが、アメリカの言いなりになって戦争に参加するようなことは絶対に認められるものではない、という解釈になるのではないでしょうか。
アメリカからすれば、ポツダム宣言を受諾する前提条件として、戦前の日本の外務省との交渉で、天皇制については、日本国民の意思に任せるという条件で合意した上で、昭和天皇が自らの責任で、苦渋の決断をしてポツダム宣言を受諾し、8月15日に大日本帝国軍そのものが無条件降伏をし、敗戦を認め、日本国を助けることに繋がったものではないのか、ということが真実であるならば、これに基づき、戦後の日本国憲法で、第1章に天皇の条文が記載され、この中で、天皇陛下は、私たち日本国民の象徴であるということで、この第1章で定める原則としては、欧州各国に置き換えれば、「君臨すれども統治せず」という原則に基づき、あくまでも、日本国民の象徴として君臨すべき存在であるものの、統治者ではないというのが、憲法上における要件そのものとして、戦後の国会で承認されたものであるとするならば、これを自主憲法ではないという解釈そのものが、とんでもない勘違いでしかないということが本質的な見立てそのものを自ら明かしてくれたものでしかないとしか言いようがありませんね。
これが、仮にアメリカから押し付けられたものであるとするならば、そもそもが第1章に天皇の条文が来ることはなく、この戦争の放棄こそが第1章に載せられたことになっていたことは言うまでもありませんね。
この原則を、戦後70年に渡り、守り通してきたことそのものが、二度と愚かな過ちを繰り返すことなく、平和と共生により歩み続けてきたのではないのか、というのが真実として見破れば、世界的に見れば、この憲法9条にこそノーベル平和賞のお墨付きを賜ることに値するものと評価されて然るべきではないのかというのが真実であるとするならば、この憲法9条を亡き物にしようとすること自体、これこそが、全人類に対する無謀な挑戦どころではない、とんでもない敵対的行為そのものであり、これこそが国連安全保障理事会にて、旧敵国条項に基づく制裁決議が発動される要件そのものでしかないのではないか、という本質的な矛盾どころではない、これはもう民族分断にも繋がりかねない物凄い断絶を、自ら引き起こし、この戦前の日本と同じ過ちを繰り返すことになったところで、もう後の祭りどころではなく取り返しの付かないことになったところで、自ら招いたものでしかないというのが、本質的な見立てそのものではないかと見破れば、私たち日本人が、自らこの本質的な矛盾と対決することで、これを乗り越えて、憲法9条にノーベル平和賞のお墨付きを賜ることを、具体的な目標に置くことで、共に支え合い、助け合い、分かち合いながら、共に幸せに暮らして行くという尊い志というものを個人主義のベースとして、自己理解ならびに環境的理解を通して、合理的な推論に基づく意思決定により、これを中長期的なライフキャリアプランとして描いて行くための第一歩として踏み出していくためのきっかけとして、自立・自律していく道を自ら選択して行くことで、この代償として「さらば暴政」、「さらば原発」、「さらば全体主義」ということで、そっと静かに歴史の闇の中に葬り捨ててしまうことで、これをキャリア発達というものに繋げて、成熟した大人の国として生まれ変わり、日本の運命を大きく変えていく道を選択して行くことこそが、何より大切なことかも知れませんね。
投稿: asa | 2015/05/23 19:35