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2014/08/10

教育科学研究会全国大会2014

10609532_750657424995005_7621797705 昨日と今日も、1日目につづいて教科研大会に。分科会は、ちょっとひさしぶりに青年期に。昨日は、小泉先生の授業実践から、教育の民主主義を考えるというもの。そこにあるのは、子どもの気づきを通じての学びとでも言えばいいのか、そのために子どもに依拠し、子どもの意見の表明をさまざまな方法で組織する。その前提には、いろいろな子ども理解や接近の模索もある。もう1つが、正則高校の実践。ここは教職員の手によって学校作りがすすめられ、現在は進路、大学進学にも重点を置いて模索する。そして、今日は、ノンエリート大学の教育。一昨日のフォーラムのこともあるので、その連続性というものをいろいろ、考える。若者が声を上げることをめぐる問題とのかかわりで、学校教育に何が求められているのかと。
 過剰な同調圧力と、承認要求のなかに生きる若者たちの成長をどう支えるか。ある意味で、伝統的な教育実践を引き継いだ面と、いまの子どもに向き合う努力の面と。そこには限界ももちろんある。子どもに向き合い、その思いを表現し、そこから実践につなげる。その過程にこそ、いろいろなヒントがあるのかな。そして大学と高校をもっと一体的に議論しなければいけないと思うなあ。

 最後の、全体集会は、ふたたび若者の議論。この間の多様性を担保し、感性を大切にし、広く参加を組織している若者の運動について。
 まず、SASPL特定秘密保護法に反対する学生有志の会。法案が通る日に終電をのがして、一晩中語り合ってできた団体で、活動としては、学習会とデモ。ライトな感じ、かっこいいと言ってもらえている。既存のデモとはまったく違う。CMを自分でつくって、デモもグーグルで学んだ。それでやったら、500人でできた。ノリからはじまる。発言者は、政治は難しくてわからないという立場から活動に参加している。国際協力のNGOに興味があり、インターンシップなどにも参加。途上国をしるためにバックパック。学びをへて、社会全体の構造に疑問。3・11が起こった。それまで日本の政治について考える機会がなかったが、日本の政府に疑問。どれを信じたらいいのかわからないなかで、友人がやっていた。汚い言葉をつかっていない。官邸前は遠巻きから。2月のデモで、ある子がスピーチ。等身大の言葉で。これでいいんだ。それまで、批判がこわくってできなかった。でも、政治を語るのはださいことでも、恥ずかしいことでもない。やらないで後悔より、やって後悔ということが降りてきたと。
 2人目は、おもちさん。官邸前、反差別デモなどなどに参加している。小中で不登校、定時制の高校に。はじめてデモにいったのは2003年のイラクのデモで6歳。その後はだしのゲンや東京大空襲のドラマで反戦の気持ちが。中学生のとき、韓流。3・11。そのときまで原発を知らなかった。5月のデモに行くかと父からいわれ参加。高校に入って、Twitter。あるときに反韓デモ反対のタグ。差別デモを知って、何これと。なんで殺せと言われなければと。カウンターに行かないと。反対されたが、はじめて1人で行った。Twitterの知り合いといっしょに、最前列に。それから、在日のことについて知った。意識して本を読んだり。 秘密保護法。高校生を集めよう。かなりの高校生につながれた。未成年のデモをしよう! U20デモ。人間関係のトラブルはめんどくさい。SASPLのデモ。わかものすごい! 生徒はうけみながら、変わってしまう。若者が声をあげないとダメ。
 最後は、学生ユニオンの学生。首都圏青年ユニオンの活動について聞く講演会などをとりくんでいる。特別の人がやっているというイメージがあるので、だけど普通のこと。ユニオンの団体交渉に参加。自分は、父が失職。離婚。学校に通い続けられるのか? 生きてていいのか。反貧困を読んで、こんだけ日本に貧困がひろがっているのかと。
学生ユニオン。常時、5人の学生と、4人の院生。大切なのはわかるが自分がやるのか? これだけの社会状況を前いにして考えていない学生はいない。しかし、話せる環境にない。そして社会運動、ハードルの高さ。配慮は必要。
声をあげていいんだということは伝えていきたい。社会の一員として抗議する文化ができつつある。

 話を聞いていて思ったこと。司会者は、新しさ、そのときに表現方法の新しさを強調する。それはそうだけど、その側面が肝でもなさそう。つまり、若者の運動はいつの時代も新しい。だからその新しさに期待をすることが大事なのではない。その新しさのもつ意味や背景、それが示していることが何なのかを考えたい。声を上げるのかつらい、むずかしいもとで、自分たちの生活と文化をもとに、声をあげていることが肝か。そこには、プロセスもあり、そこに次に向かう方向というものもある。そのあたりの、だから、プロセスそのものが大事なのかな。その声を上げる場は、それでも限られている。そこにはやはりしんどさもある。その裏側には声を上げられない、あげない若者もいる。そういうなかで、声を上げているということのもつ意味について考えたい。若者に過剰な期待をかけてしまうのではなく、その若者の行動に大人として応答すること。大人は大人としての行動をとること。まず、自分たちが、民主主義について、しっかり考えないと。

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