夜、浦和でおこなわれた表題の学習会に行って来ました。世取山氏の話もたまにきかないといけないしね。
世取山さんは、新自由主義の特徴として、まず渡辺治さんの言葉である「10兆円削って3兆円集中投下」と指摘する。その原動力として、労働政策の大転換=「新時代の日本的経営」でいわれた労働者の三区分、つまり無期雇用の範囲をエリートに限定し、労働力の質を全体として低下させたいということがあると。リカレント型ライフスタイルという言葉があって、学校教育ではチープな労働能力の形成をし、有期雇用につく、そこで行き詰まったら、また学校にもどって新しい能力をみにつけて、仕事につくというスタイルだ。結局、高校教育で、ちゃちなものを学ばせる軽量化がはかられる。
そもそも新自由主義では権力の流れ方(おそい方)が変わると指摘。巧妙な統制が、教員評価・学校評価などの形でおこなわれる。彼が、国立大学法人化に直面しながら、市場化といいながら、大きなパワーを感じたと。それは金の力という感覚があり、もともと”教育の自由”の本質的意味の1つに、金銭の支配力からの解放ということがあるのならば、その復活が法人化だと感じたと。
New Governanceというのは契約関係、財布の紐を握っている人間がコントロールするというものだけれど、しかし、金の出してのいうことを聞かない労働者をどうするのか。そのことを明らかにする理論として、PA理論(principal-agent theory) 主人代理人理論というものがあると紹介、ここでは、職務内容の標準化、評価、競争の組織、賞罰という形で上から下まで、競争を用いた徹底した統制がおこなわれると。
では新自由主義はなにをするのか。競争をできるだけ早期から、競争で排除すると。自身がデトロイトに留学したときの経験を紹介。貧しい地域、できない地域では、ぼくはダメダメと排除される。成績と相関関係があるのは、親の収入だけ。子どもは自分たちでは対応できないもので、できないという烙印を押される。
日本では、教育における新自由主義は臨教審からつまみ食いにすすめられたが、2000年代の教育改革国民会議で、全体像を明らかにする。2005年には経済財政諮問会議で学テが提案され、学テによる強力な統制がすすめられていく。教育基本法を改正して、その法的障害をとりのぞく。学校教育法の改正も学力の種別化(基礎+応用)を(基礎OR応用)と。三鷹では小中一貫がすすめられているが、豪華な校舎を呼び水に統廃合がすすめられている。しかも、小中一貫を4・3・2年にわけ、5年以降は主要教科は習熟度別となる。
今後、何が起こるのかは、アメリカをみると明らか。デトロイトの新聞で、親の投書、高校卒業したらギャングになるか、軍隊か。小さい頃からの絶望感の蓄積で、軍隊にいく…。
では対抗軸は、ミシガンで危機にある子どもの比率が高いが、学力テストの高い学校を調べてみると、その学校の教育目標は、人格の完成 全面発達であり、教師は集団性・共同が重視をされ、さらに親向けのコンピュータ教室もおこなっていた。かつて日本がつくっていたいちばんいい学校。つまり対抗軸は旧教育基本法のなかにある。バーミンガムでは教師の研修費に150万つかっているがリキュラムの自主編成をいっしょにすすめている。
日本の新自由主義改革に学テ判決における教育の自由の容認t、義務教育国庫負担制を基礎にしたナショナルミニマムの必要性という限界性がある。しかしこれは過去の運動の成果がまだ生きているもの。”高”進学率 親の要求をどうすぐれた要求に組み直せるのか。教育機会の延長のより積極的な意義をどこにみるのか。おこっていることは経済活動による”子ども期の浸食”であり子ども期をどう考えるのか 社会的な合意をと訴えていた。
PA理論をベースにした、世取山氏のいつもの話だけれど、聞いた人は、新自由主義というのは破綻しているのではないのかと違和感をもったかもしれない。もともと、世取山さんの議論は、システムの問題を扱っているので、教育の分野では、新自由主義的なシステムは、ある意味では完成期にあるとも言えるのかもしれない。ただ、現実の施策の進行の場にある、力関係やそこに反映される矛盾などのものは、捨象されるわけだけれども。東京のように理論をそのままつきすすめているようなところではわかりやすいのかもしれないけれども。
そういう理論の枠組みでの話だから、対抗軸といっても、やや理念的で、現実の力関係のなかで、どう突破していくのかという話ではないので、ここも違和感をもつ人はいたかもしれない。
あいかわらず、よくいろいろ勉強しているし、よく考えている人ですよね。
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