悼む人
09年1冊目は、この本。天童荒太の久しぶりの長編。たしかに、うまいし、本を読みながら、泣き虫のボクは、何度も泣いた。でも、文学の素養のないボクには、どうしても理解できないというか、心のわだかまりというものが残ったことも事実。
この本には、オフィシャルなHPがある。あらすじなどはそこにみてほしい。そして、そこを読むと、この小説は、アメリカによるアフガニスタンへの報復を契機につくられたことがわかる。たしかに、死者、被害者への想像力の欠如が、この世界の困難をつくりだしているのだろうと思う。だから、ぎりぎりまで、その世界の現実を、そぎ落としながら、その本質を問おうとした作者の姿勢もわかるし、動機も理解できる。その意味では、ある意味での社会性のある、すぐれた作品であるということもいえそうだ。
でも、なぜわだかまりをもつのだろうか。もちろん、主人公の「悼む」という行為は、人間的な葛藤のうえに、いろいろな曲折をへておこなわれているのだけれど、でも、でもだ、ボクにみたいな、そんなに単純に、他人や、そして自分を、理解したり、信頼したりすることのできない、弱く、汚い人間にとっては、その経緯はどうしても理解しがたいのだ。というか、そんな姿は、あまりにも自分の弱さとかけ離れてしまっている…。
だから、登場人物の葛藤の中身もどうしても気になる。どうして、その救いは親子関係など、きわめて限られた人間関係のなかに「封じ」こまれるのだろうかと。90年代の一時期、AC(アダルトチルドレン)という言葉が、はやったけれども、心の傷の契機は、親子関係あったとしても、現実のいきづらさは、現実の社会のなかでの関係のなかで形成されているのだから、ここにも違和感を覚えてしまう。
もちろん、小説は、世界でおこっていることすべてを問うわけではないし、そのことが必要だとは思わない。けれども、この本を読んだ人が、でもこの世界の死というものにどう向き合っていくのか。それはたしかに、読者次第だろうけれど。
だからこそ、ボクの感じるACの臭いなどの違和感は、もしかしたら、斎藤美奈子が、「朝日」で書いていたみたいに、「スピリチュアル」と紙一重ということなのかもしれない。そんな、単純に、判断を下すことができない、現代社会の一断面を問いかけた小説であるということなのだろうか。
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