今日は、午前中から民主教育研究所の「シンポジウム 第3弾 新学習指導要領と文科省「解説」を問う-どうする私たちの授業づくり-」に行ってきました。午前中からというのは、ちょっとつらかったですね。昨日jは、夜、地域のちょっとした会議のあと、一時間ほど飲んで帰ったのでよけいにです。
シンポジウムは、新学習指導要領の「解説」をテーマにしたものでした。解説書は、小学校分だけでも、総則、各教科とも100ページにおよび、全部で1000ページをこえる内容です。なかなか読みこなせるものではありません。これを機会にある程度の概括的なものをと思って、聞きに行きました。
シンポジウムは、梅原利夫さんが、「新学習指導要領『解説』の全般的検討と私たちの課題」と題して報告。それから、東京の今井成司先生、和光の鎌倉博先生が 「国語科『解説』と私たちの授業づくり」について報告。元自由の森の増島高敬先生、和光の加川先生が「算数・数学『解説』と私たちの授業づくり」について報告。そして討論がおこなわれました。
今回の解説書は、わざわざ文部科学省の手によってオーソライズされています。いわば拘束力があるというような言い方で、こまかく内容を指示する形のものとなっています。その特長の大筋をつかむうえでは、いろいろ役に立つ話を聞くことができました。
ただ報告を聞いても、討論を聞いても、この種の議論についてはいつも不満と疑問を感じています。何をどう押さえていくのかということがどうも整理されていないという感想をもってしまいます。その前提には、父母や一般の市民と、こういう場で議論されることとの間には極端な乖離があるということです。内容が専門的という意味ではなく前提になるような問題のとらえ方が少し違いのではないのかという感じがするのです。実際に素の教育現場で議論されることとも少しちがうのではないのかなあ。
展望をどこに見いだすか。文書のなかにある矛盾にこそという議論がなされるのですが、でも問題は、その矛盾をどのようにとらえるのかということをもっとみるべきではないかという感じがします。「解説」は異様なまでに教育課程をつくるうえでの法的根拠というものを並べ立てます。問題はこうして、学習指導要領を権威化することと、現在の教育実践が抱えることの埋めようのない矛盾です。つめこみからゆとりへ、そして学力向上と道徳重視へという学力政策の変遷の一つの本質は、格差を前提としたエリート教育にあると言えばいいのでしょうか。そのことのもつ、覆いがたい矛盾という角度からまず学習指導要領とこの「解説」はつかむべきなのだと思います。
ここからは、もっと多様な議論の展開は可能だと思います。学力政策の根底にある学力観や、その前提となる子ども観の問題。学びのあり方をめぐっての学習観も、ここからいろいろ議論できるような気がします。
ところが教科の議論にはいると、とたんに教育内容のほうにひっぱらてての議論にある。そして、どのような授業をするのかという話になります。となると、どうしても、提示されている養育内容が、科学的なものなのか、十分に精査されたものなのかという議論に終始してしまい、指導要領や「解説」のもつ本質的な矛盾の表面だけを追いかけることになるような感じがするのです。
言い方を変えれば、学習指導要領そのもののもつ矛盾をとらえるということと、各教科の教育内容上のもつ問題ということは、同じレベルの問題ではないような気がするのです。ここをごっちゃにして議論すると、矛盾が隠されるというか。うまく言えませんが。ともすれば、学習指導要領の問題は教科に現れた矛盾に目がいきます。それはそれで、しかるべき分析が必要です。しかし、それは、たとえば「総則」にもっとも端的に示されるような、学習指導要領のもつ本質的な矛盾のとらえ方と有機的にむすびついて議論されないと、どうも本質の押さえがふかまらないというか。口では、「総論」の議論が大事だというのですが、ここがなかなか議論としてうまくとらえられていないような感じがするのです。
たとえば。「解説」の「総則」の記述でも、「教育課程の意義」というところの記述はかなり、その矛盾を端的にしめしているように思います。グローバル時代の資本主義の時代にもとめられる学力、これは一面として、人間の人間としての発達を必要とするにもかからず、その発達を保障する教育活動の豊かな展開を阻むような、上からの教育活動の押しつけしか用意できないでいる…。
学校現場でのたぶん、教師としてのあり方だとか、学校づくりだとかが大きな実践的な課題になるのだろうけれど、そうであるならば、やはりここの議論をまずもって、豊かにしたいものです。もちろん、学校づくりなどの議論の手がかりのないところでは、まず教科が焦点になるでしょう。だからこそ、教科を、教科だけで議論していいのか。例の「活用」の議論や。「××活動」なるものの議論を、本質に向かうような子どもに即した議論にむすびつけていけるのか。そこらが問われているのではないか。「決意を問う」だとか、「矛盾をきわめる」だとか、いろんな議論がありましたけれど、そんなことを突きつけたい衝動を抑えながら議論を聞いていました。
子どもの世界は、いま格差に傷つき、競争に傷つき、深刻な様相を見せています。教師たちもだからこそ、その現実に矛盾するような統制のもとで疲弊し、傷ついているのだと思います。だからこその議論をしたいなあと思うのですがいかがでしょうか。
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