秋葉原事件に関連して考えるべきこと
今日は、朝から会議。午後からは、ひたすらパソコンとにらめっこしての原稿執筆だ。編集者である人間が、別の雑誌の原稿を、〆切に追われながら格闘するのも何かへんな感じではあるのだけれども。まあ、もともと、自分の雑誌も原稿に手を入れるより、原稿をつくるほうが好きだし、その生産量も結構多い方だから、苦痛というわけではないけれども。夜は行ってみたいイベントもあったのだけれども、そこは自粛して、ひたすら原稿を書き続けた次第である。
昼、食事は午前中の会議のメンバーと、おしゃべりをしながらとった。そのとき、たまたま、私が尊敬する、とある教育問題などにも造詣の深い政治家の方にあったので少しおしゃべりをした。そのとき、秋葉原の事件が話題になって、その方のいうことにものすごく考えさせられた。
もちろん秋葉原の事件は許すことができないし、事件そのものと背景として論じられることについては、慎重な区別が必要だ。そのことを前提にしての話だけれど、事件の背景として、派遣の絶望的な雇用のあり方が論じられている。それはそれで、否定はできないほどの深刻な問題だし、そのことを論じるのは意味がある。だけれども、事件の背景として、教育の問題、学校の問題が論じられないのはなぜかということだ。テレビの取材が、容疑者の高校に入ったとき、取材の記者の、彼の高校時代の成績はという質問に、校長?はすぐに、300番ぐらいと答えたそうだ。この答え方の背景には、日頃から、細かく成績で順位付けをしていることの反映があると見ることはほぼまちがいのないことだと思う。
90年代後半からの新自由主義「教育改革」は、ボクらが感じている異常に、子どもたちの世界で競争を激化させている。尾木直樹や本田由紀は「新たな学歴社会」という形容をしているけれど、雇用の不安定化を反映して、言ってみれば、生き残りをかけた競争がくり広げられている。そこでは子どもたちは、人間として、決して大切にされず、その尊厳を、自己肯定さえも否定され、傷ついている。『週刊現代』で、容疑者の弟の手記が掲載されているそうだけれど、そこからも、家庭の厳しさとともに、学校の過酷さが伺えるという。
こうした問題が起きたとき、家庭のあり方にすぐに目が行きがちだが、こうした競争はまず学校が発信し、そのもとで家庭が追い込まれる。
いまのこうした学校と教育における子どもたちをとりまく競争というもの、そこでの子どもの傷つきに、実はボクらは、あまりにも鈍感になっていないだろうか。たしかに、この問題はもっともっと議論がなされる必要があるのではないのか。そして、こんな問題は、すでに国連の子どもの権利委員会からすでに二度にわたって、指摘されていたことではないのか。
大事な指摘に学びながら、いろいろなことを考えさせられた次第だ。
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