重い気持ちの正体
今日は、朝から何となく気持ちが重たい。やはり、秋葉原の事件が大きく心にのしかかる。加害者の言いようのない絶望感と孤独感。報道されているような加害者の思いを、その同世代がどのように受けとめているのかは、まだ、よくわからない。ただ、少なくとも、同様な絶望感や孤独感は、この世代に共有されている部分は少なくない。もちろん、だからといって、誰もがこのような凶悪な犯罪を犯すわけではない。犯罪の直接的な要因は、そこにあるのでは決してない。たまたま知人から、被害者の一人がお世話になった方だったというメールをもらったけれど、決して許すことのできない犯罪だし、もし、自分の親しい人が被害者になれば、激しい憎悪を駆り立てられたのだろうと思う。
しかし、この絶望感や孤独感をどう受けとめたらいいのか。そんな思いも、常にボクの心の中には存在する。90年代に新自由主義的な政策がくり広げられた以降に、青春期を送る世代には、少なくともボクらの想像を超える、困難や、絶望、閉塞感、孤独感というものがあると思う。それをボクらは十分に受けとめられているのか。少し、世代的には、違う若ものの発言だが、物議を呼び起こした例の赤木問題というのがあるが、彼の発言を聞いたときに、むしろこれは、論理の問題ではなく、感情的、道義的な面で、大人は彼らの困難に向き合っているのかという問題提起をされた気がしたわけだけれど、こうした問題には、常に、ボクらの道義的な立場が問われているような思いになる。
だから、本当はボクらは、冷静な目で、この世代にかかえる困難の実態をよく見つめなければならないのだと思う。そう考えると、この数日の加害者の育ちや生活を追ったメディアの報道は、あまりにも興味本位で、いやな気分になる。この世代の困難が、直接、犯罪にむすびついているわけではない(もちろん、根底に要因の1つにたとえそれがあったとしても)。無責任に、興味本位に、派遣や競争というものと安易にむすびつけて事件が報道されることで、若ものたちは、少なくとも、加害者と同じような絶望感や孤独感をもったことのある若ものたちは、どのようにつらい思いをするのだろうか。加害者の家族にまで、ずけずけと何の配慮もなく追い回す報道の有り様も、ひどいものだと思うけれど、この点でもメディアというものはあまりにも無神経だと思う。
もう1つ重い気分の正体にぶち当たる。さっき「冷静な目で」ということを書いたけれども、これが結構、むずかしいのだ。若ものの困難という問題に向き合うとき、当然、大人の側のボクらも、同じように「生きづらさ」や孤独感というものを背負って生きている。だかtら、本当に求められるのは、冷静な目での、「共感」というものなのだろうけれど、つい自分の「しんどさ」を、安易に若ものに投影してしまうということもあるのではないのか。いってみれば、共依存だ。若ものの問題を解決するためにも、まず若ものが発言することが大事だ。ボクらは、共感者であるべきだ。そのためには、自分は、もっと冷静であるべきだ。「つらさ」や「しんどさ」をとおして、そんなことも考えたりする。ちょっと変だろうか?
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