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2008/01/13

分科会「国民の教育権と教育の自由」(その1)

 土曜、日曜と民主教育研究所の教育研究集会に行ってきて、いろいろ討論を聞いて、さすがに疲れました。つれ合いが、岡山に行っているので、家のほうは、二男と二人。今日は、早く帰って、二男のリクエストの夕食をつくって、あとは少しゆっくりします。

 さて、今日は分科会。「国民の教育権と教育の自由」です。四本の報告と討論です。
 まずは、堀尾先生の報告。『世界』の「『国民の教育権と教育の自由』論再考」の説明をされました。ボクがこの論文を最初に読んだときの感想は、ここに書きました。ふり返って読むと、恥ずかしかったりするのだけれど、そのときに率直な思いだったので。あらためて、先生からこの論文を書いた、動機や思い(ねらい)などについて、直接話を聞けたのは、よかったと思います。とくに、論文で書かれている、「これからは国民の、そして子どもの発達・学習権の保障という同じ土俵での、親、教師、地方、国の権利と義務、責任と権限の関係をめぐっての争いであり、そこでは条理にもとづく解決が可能にかったと考えてきた」「『国民の教育権内部』での具体的な議論(論争)が重要であり、異なった見解との冷静な対話が求められている」としているところに改めて、注目させられた。freedomとしての自由については、合意があるものの、教師の自由などlibertyの間では、十分な合意がされているわけではないという指摘です。これはよく受けとめなければならない、今後の重要な課題です。

 二本目は世取山さんのいつもながらの?挑発的、報告です。憲法学が、この教育の自由をどのように認識してきたかとうことについて話されました。これも西原さんの議論を念頭に置いたものですが、その契機には、奥平先生の、議論があります。世取山さんは、この問題をとらえるうえで、「人間教育法対公民教育法」という、枠組みを提示してきます。「国民の教育権対国家の教育権」というとらえからでは。問題の焦点があいまいになるというのです。なるほど、教育の目的というか、理念というかからみれば、言われるとおりのところがあり、そこから見えてくることも少なくありません。教育人権論という視点からすれば、このとらえ方のほうが自然なのでしょうか。ボクにはまだまだわからないところがあります。人間教育と公民教育と言っても、どこまで区別が可能なのか?重なり合う部分もないような気がします。また、現実には、公民教育という言い方で、人間教育を主張する場合などのあるわけで、ここで、公民教育を批判する場合には、けっこうややこしさもあるような気もするのですが。
 政策論争的な概念規定は、時代状況というものの影響をうけます。ならば国民の教育権というとらえ方も、時代の影響をうけているということでしょうか。ならば、どのように時代の影響をうけ、なぜにそれが大きな影響をもつにいたったのかについては、よく吟味している必要があると思います。ボクはこの人間教育法というとらえ方を考える上でも、まずそのことを考えたいと思います。
 いずれにしろ、公民的教育論というものが、すでに死滅(破綻)しているという世取山さんの主張は、なるほどと思います。西原さんなどの議論が出てくる論理的な背景などもよくわかる報告でした。

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