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2007/11/10

「国民の教育権と教育の自由」論再考

 『世界』の今月号(12月号)で、堀尾輝久先生が、「国民の教育権と教育の自由」論再考という文章を寄せている。同誌の5月号にのった西原博史(早稲田大学教授)さんの批判に対して答えたものだ。なかなか重要な論文だと思ったので、紹介しておく。
 
 もともの、西原さんが「国民の教育権」や「教育の自由」というとらえ方に批判的で、『良心の自由と子どもたち』となかでも、そのことを主張していたが、そのときは、私は、どちらかというと、「国民の教育権」をめぐる政府の解釈をなかなか崩せないもとで、個人の(親の)、良心の自由を強調することで、教育現場に自由を与えることができるよといった問題提起としてぐらいにしか受けとめていなかった。
 ところが、この間の西原さんの議論を聞いていると、そんな問題提起の範囲をはるかにこえて、かなり確信的に、「国民の教育権」の否定を主張している。戦後の教育法学を”幻想”とまで言い、『世界』の論考では、かなり決めつけ的な議論までしていて、ちょっといただけない。
 わりあいと論理的に書いている、『ジュリスト』や『法律時報』などの論文を読んでみたけれど、やはり複雑な思いを抱く。私たちは、西原さんのこの「変身」?と「提言」から何を導く出すべきなのか。

 教育法学の必要性を説いた、田中耕太郎は、法学者と教育学者の垣根を越えた真摯なとりくみをよびかけた。しかし、この間の議論を見ていると、どうも垣根が高くなっているような気がしてならない。教育基本法「改正」のさいの憲法学者の動きもそうだけれど、西原さんの議論も憲法学者の主流になっているとまでは言わないが、違和感なく受けとめられているような気がする。
 もちろん、その根底には、国民の教育権論そのものがもつ理論的枠組みが、実は、憲法学の側を巻き込んで、発展させられてこなかったことがあるのかもしれない。この点は、少しふりかってみたい問題でもある。

 さて、堀尾先生の反論は、改めて「国民の教育権」と「教育の自由」の原理を確認する。あらためてそのことの重要性を学ばされる。しかし、それで、西原さんの論考を読んだときのもやもやが、すべて晴れたわけではない。堀尾先生は、「再構築」という言い方をしているが、確認された原理をどう発展させるのかこそが大事なのかもしれない。
 では、どんなことを西原さんの議論から考えるべきなんだろうか。なぜ、西原さんのような議論が生まれてくるのか、そのこともふくめ、気になる点がいくつかある。
 一つは、国民の教育権の基盤とも言える、子どもの発達権ということにかかわる点だ。言い換えれば子ども観、発達観にかかわる問題だ。それへの科学的な認知というものが、教師の専門性というものを導き出す構造になるわけなんだろうが、この子ども観、発達観が揺れ、相対化される傾向にあることをどう考えればいいのだろうか。西原さんは、子ども中心ということを言うが、しかし、そこにある子ども観は、あまりはっきりしない。読みようによっては、子どもの権利は、人権の単純な構成要素の1つというようにも読めなくはない。
 二つめは、西原さんは、教師の自由というものを批判するがその点である。国民に広範に存在する教師不信ということもある。それだけではなく、実際に、反動的な「教育改革」がすすめられるもとで、教育の現場が傷つき、疲弊している現状もある。場合によっては、反動的な文教政策の末端の執行機関化しているようなところもある。そういうなかで、はたして、教師は「教育の自由」の担い手足りうるのかという問題提起は十分説得力をもちうるのではないのかという点である。
 そのほかにも、社会の変化のなかで、教育をとりまく状況は大きく変わっている。国民の教育権を構成していた、たとえば親(親権者)は孤立化され、消費文化のなかで、消費の担い手化する一方で、人権意識は向上しているという問題もある。地域は大きく解体している。しかし、大きくは戦後六十余年の民主的な教育運動の成果も否定はできないものがある。そういうなかで、図式化できないような国民の教育権をめぐるさまざまな問題が存在するような気がしている。
 たとえば、学校選択制をどうかんがえるのか。はたして親に学校を選ぶ権利は存在しないのか。最終的な政策的結論は同じであったとしての、そのことを導く論理は、もっと豊かになっていいのだはないのか。

 あまり当たっていない意見かもしれない。そして、もちろんその答えは、たぶん「国民の教育権」論自体のなかにあるのだと思う。こうした私の疑問というか、問題をとくような形で、「国民の教育権」をどう発展させるのか、そんな議論もなされるのだろうか?

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