少し前の朝日新聞(5月12日付)に、「自省する『戦後教育学』――閉鎖性・運動との結びつきに批判」という記事が掲載されていた。その批判の対象とされていたのが、堀尾先生で批判する側が、苅谷氏や広田氏、西原氏だった。私は、個人的には、広田氏の議論には共感をもっている。苅谷氏の議論は、どうもいつもなっとくが出来ないでいる人間である。(西原氏の議論はまったく別の時限からの、かなり実践的な議論と解した方がいいし、西原氏自身が節度のある議論を心がけていると思う)
この記事をそうだが、ここんところ、教育再生会議の議論を読んでいて、漠然とした問題意識をもってるのが、彼ら教育社会学者の議論は、教育再生会議の議論の本質をつくには、どれだけ効果的な批判となりえているのかという問題である。つまり、教育再生会議の議論は、かなり保守的で理念的な議論にほかならない。政策的な表面的批判にとどまってはいないのか。
たとえば、子どもの発達という問題がある。教育再生会議の議論は、理論的には、子どもの発達を否定すると言ってもいい。発達ということが視野に入ったとしても、戦後教育学が、つくりあげた発達とは異質な捉え方をそしている。しかし、その発達が、教育の世界では語られなくなったし、むしろ広田のように「閉鎖的」という捉え方をされるようになっていく。なぜ、発達は語られないのか?
ちなみに、そんなことを考えているときに、わだゆう氏のブログの一文を発見した。若い研究者が、どんな捉え方をしているのか、興味深い一文でもあるが、限られた考察で、私の立場より「中立的」という留保をつけながら、なかなかあたっている議論である(笑い)。
そんな問題意識のもちながら、堀尾先生の、『子育て・教育の基本を考える』という本を読んだ。この本に収められている論考のほとんどは八〇年代に書かれたものだ。それを今日の地点にたって、加筆・再編集した本となっている。
教育再生会議の議論が、ある意味、伝統的な保守的な教育観のうえにたって、新しい現実的な、役割をもっている以上、それに対抗するには、もう一度理念に立ち返る必要がある。戦後の教育学が、憲法や四七年教育基本法をもとに、どのように子ども観、教育観を豊かにしてきたのかを、問い直すことが求められていると思う。なんだかんだいって、子どもの権利条約を理解し、それを使いこなすことは、発達を抜きには考えられない。それぬきには、一般的な、人権のレベルにとどまってしまいかねないのだから。
もちろん、理念が理念でとどまっている限り、それは無力であろう。現実社会の分析という中間項を積み重ねたうえで、現代の教育の構造をとらえること抜きには、力を発揮し得ない(その中間項という意味で、広田の議論に共感を覚えるということであるのだが)。
堀尾先生がもう一度「発達」にとりくみたいと言っているのを聞いたことがある。そういう意味で、この本は、決して、過去の議論を再版したものではなく、現在の「教育」に問いかけようとした本であるとも思う。はたして、堀尾さんの問題提起を、われわれはどう受けとめればいいのだろうか。答えが出されているわけではない。私たちは問いかけられているのだと思う。
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