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2007/05/16

想像力が弱まっていないか

 昨日は、凄惨な事件について書いた。そこで、ぼくが言いたかったことは、あまりにも想像力が弱くなっているのではないかということ。今日の新聞でも、この事件について、さまざまなことが書いてあった。今日、多かったのは、進学校で母親の期待が強すぎたのではないかというような主旨のこと。
 真実は、わからない。ただ、どんな原因であれ、その原因には背景がある。その背景の社会的位置などもふくめ、さまざまなことが想像はできる。メディアは、そんなことを欠落させて、ただ表面的な原因を追いかけようとしている気がしてならない。個別の「責任」で事件を納得させようとはしていないのか。

 子どもの事件が起こったとき、最近、最大の議論の対象とされるのが、規範意識や道徳の問題であり、親の責任という問題。教育再生会議でも、「親学」をめぐって、さまざまな議論がかわされている。家庭や親の役割を否定するわけではない。しかし、この議論でも社会的な想像力が欠如していることを痛感させられる。親子の関係一つ取っても、抽象的な、親と子だけで存在しているわけではないのはあたりまえのことなのに。親学の本を読んでみても、ここで出てくる家庭や、親子は、社会から切り離された、観念の世界以外何ものでもない(今度くわしく感想を書きます)。

 一方で、次のような記事がある。

大阪市の中学給食を08年以降段階的廃止へ(日刊スポーツ)

 大阪市教育委員会は15日までに、市立中学12校で実施していた給食を2008年度以降に段階的に廃止する方針を決めた。同和行政見直しの一環で、今秋をめどに調理施設を民間経営による生徒用食堂に切り替えるなど具体的な代替案をまとめる。
い」と提言していた。…

 大阪市の給食が、同和行政絡みで、部分的に実施されてきたという複雑さにはあらためて驚かされるが、――その同和行政の見直しが必要なのはいうまでもないが、見直しする方向がまちがってはいないのか。これだけ、格差や家庭の困難が言われているとき、子どもの豊かな成長を考えれば、給食は、拡充することが本筋であるべきなのに。そんな視点は、何も見えてこない。その結果、強調される「親学」は、国や行政は何もしなから、とにかく親が責任をもてということなのだろうか。

 一方で、国や行政は、規範意識の形成のために、そして子どもの成長のために何をしようというのか、

「君が代」の歌いぶり、3段階でチェック 和歌山県教委(朝日新聞)

 和歌山県内の小中学校の入学式や卒業式で、児童・生徒や教職員の君が代の全体的な歌いぶりについて、同県教委が「よく歌えている」「比較的歌えている」「ほとんど歌えていない」の3段階で調べ、各校別に評価していることがわかった。県教委小中学校課は「歌えていない場合に原因を調べて指導や助言をするため。現場の状況を細かく調べるのは県教委の責任で、必要な調査だ」としている。
 県教委はこのほか、式次第に「国歌」と入っているか▽伴奏に使うのはピアノ、テープのどちらか▽国旗掲揚の場所――なども調べてきた。国旗・国歌法が99年に成立する前の98年度卒業式から評価を始めたという。 ……

 こんな国、こんな社会って恐ろしくないか。

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コメント

恐ろしい限りです。学校が「小国民」を作った事実を忘れてはならないですよね。何かをいえるところで,いっておかないととは思います。子どもを大事にする社会こそ,わたしの求める社会ですから。

 もし、子どもたちが現在の、弱肉強食の世界のなかで、精神的な外傷をかかえているとすれば、いまの政治の対応や、メディアの報道は、どう考えても子どもを追いつめるだけです。そんなことも考えずに、それこそ「小国民」の育成に血眼になる政治とはいったい何なんだろうか。悲しい気分になってしまいます。

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