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2006/09/12

ナベツネの思いをどううけとめるべきか

 今月の『中央公論』に、読売新聞の渡辺恒雄氏の「なぜ、今、戦争責任の検証か――『昭和戦争』に自らの手で決着を付けよう」という重要な論文が、掲載されている。日本人の手で、この戦争責任論争に決着を付けようと言う、きわめて重要な論考であり、この間、読売新聞がすすめてきた「戦争責任」追及の1つの到達点をしめしている。
 論文では、東京裁判の限界や問題を指摘(そのかぎりでは多くは正しいと言えるのではないか?)しながら、同時に、戦犯や戦犯をのがれたものたちの戦争責任を追求する。同時に、当時の軍隊の非人間的実態を告発し、なによりも特攻というものの犯罪性を告発する。その告発は戦争体験者だけに、みごとなほど説得力がある。そして、結論として、あの戦争が決して植民地解放戦争ではなかったと断罪している。
 ただ、氏は、日米開戦の責任の問題、ソ連の戦争犯罪の告発、そして天皇の戦争責任の免罪を主張する。たとえば、天皇の戦争責任を問わないという主張も、もっぱら無答責という法理をもちだしてのものであり、われわれが現代法の到達点から、この無答責という法理の見直しを主張するのと一線を画する。しかし、同時に、天皇の、政治的、道義的な責任という点で、氏はどう考えているのかということもあらためて問い直したいということも感じる。日米開戦の責任についても、当時の日本が、世界の分割的支配の野望をもっていたことは、当時の御前会議などの文書からも明白であり、そのことは曖昧にすべきではない。
 そのうえで、氏の論文で感じるのは、やはり、この歴史認識、戦争責任の問題をめぐって、支配層がもっている矛盾の一つの到達点だということだということだ。村山談話そのものを曖昧かしようという安倍晋三氏は、この渡辺氏の提起をどううけとめるのだろうか? その回答の選択肢は多くはない。少なくとも、今大事なことは、渡辺氏の提起を、国民的にも大いに議論することではないだろうか。そのことをなすべき重要な時期にきているのではないかと思う。歴史については、安倍氏の言うように学問的なレベルで歴史家に任せるのではなく、政治のレベルで確認しておかなければならないことがある。なぜならば、かつての戦争への態度というものが戦後の政治の出発点にあるからなのだ。
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