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2006/02/16

五輪とナショナリズム

 オリンピックで日本選手が「不振」であると言われている。私も、個人的には、日本選手を応援したくなる。なぜ「がんばれ日本なのか」ということをときたま考える。身近だからかな?
 かつて、20代のころ、職場でサッカーチームをつくっていた。当時は、代々木公園のサッカー場が、週一で一般に開放されていて、昼休みに、そこで試合をした。いつも試合相手は渋谷郵便局のチームだった。そのチームは、東京の4部リーグのチームだった。日本がまだ、ワールドカップに出たこともない時代だったけど、そういう世界大会につながっているという感覚があった。
 中学のころ、バレーボールをしていた。同じ地域に、全国優勝をするチームがあり、そういうチームと同じ大会をたたかった。そういうチームからは、当時の強豪であった大商大高や藤井寺工業にいく選手もいた。つまり、世界ははるか遠いところにはあるが、同じ世界の出来事でもあった。
 つまり、応援するこということには、何かしら、”参加している”という共有観というものがベースにあるようにも思う。だから、上村愛子はかっこいいと思うが、選手たちがそうであるように、メダルをとった選手たちはよりすごいなあと単純に思う。
 ナショナリズムそのものに、何かしら弊害があるわけではない。そのナショナリズムが内包する価値観が問われているんだと思う。そして、メディアをふくめ、そのナショナリズムの内容が、偏狭であったりすることに問題があるんだと思う。人間らしい豊かな価値観を共有できなことにこそ問題がある。
 とわいえ、五輪の日本選手を見ていて、その困難な実態には、心もつまる。夏季五輪にくらべ、競技環境があまりにも劣悪だ。夏季五輪のさいも、女子ホッケーなどが遠征費もままならない実態がクローズアップされた。冬季は多くの選手が、個人の努力にまかされている。私たちの社会自体の質の問題なんだと考えたいと思う。

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