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白バラについてのエントリーに、たくさんのTBをいただきました。
映画をみたみなさんは、お年寄りが多かったと言われますが、でもTBをくださった多くが若い人たちです。それだけを見ても、まだ日本はすてたものじゃないなと思います。
正直、日本でもヨーロッパでも、ファシズムとたたかったなかで共産主義者の比重は小さくはありません。日本では、ほぼすべてが共産主義者と言ってもあやまりにはならない状況があります。それだけにドイツなどと日本とのちがいを意識します。同時に、平和や民主主義についての、より広い共感と共有が、いまの日本ではできたんだろうか。きっと、そうなんだと思います。
今日は、休みだったので、つれ合いと2人で、ミュンヘンを見に行ってきました。まあ、つれ合いにとっては、相方といくのは、いつも重い映画ばかり。こまったものと思っているかも。
この事件がおこった1972年は、ぼくは中学生でバレーボールの選手で、夜通し、バレーの金メダルを見ていた。事件は記憶の片隅に残っている。そして映画の題材の血塗られた歴史が刻まれた。
内容はネタバレになるので今日は書くのはやめますが、もっと、折衷的に描かれるのかと思ってました。しかし、イスラエルの血のうえになりたつ歴史にするどく切り込んでいて、圧倒される内容でした。暴力の連鎖にどう向き合うかなって簡単な言葉ではすまされない。積み重なった歴史にどう向き合うかが問われているのでしょうね。
このスピルバーグっていう監督はほんとにすごいですね。彼が、シンドラーをとったとき、山田洋次は負けないで、南京をとりたいと言っていた。が、それは実現していない。そして、スピルバーグは、このミュンヘンをつくった。日本の映画はどうするのだろうか?
今日の「沖縄タイムズ」が首相の発言に怒りの社説を掲げていた。社説はいう
「地元の意見は意見としてお聞きしておきます」という発言をどう受け止めればいいのだろうか。「話だけは聞いておく」という、ただそれだけの意味にすぎないのだろうか。
なぜ沖縄で、この問題で怒りがひろがるのか。
昨年十月の日米合意文書では、新基地計画が「柔軟な危機対応のための地域における米海兵隊の再編」の項目に位置付けられ、「太平洋における兵力構成を強化」「海兵隊の緊急事態への対応能力の強化」と明記するなど、「海兵隊の強化」を公然と目的に掲げているからだ。
しかも、SACO合意では、稲嶺恵一沖縄県知事が「十五年使用期限」を条件につけていたが、今度の計画では、この建前がまったく消失している。
そして、実際に沖縄の基地は新たな強化がはかられようとしている。海兵隊の次期主力機MV22オスプレイの配備がそれ、しかも辺野古は、海兵隊部隊を輸送する強襲揚陸艦の接岸も可能な軍港化という話もある。今回の計画では、海兵隊の必要なあらゆる施設が、同じ基地の中に一体化され、基地はいっそう使いやすいものになるともいう。
住民の安全、自然環境の保護は、まったく考慮の外におかれていることも大きな問題だ。
それでも首相は、「地元の意見は意見としてお聞きしておきます」と言うのだ。再び沖縄が捨て石にしようというのであろうか。
先日の腰痛の後、左足にしびれが残って困っています。痛くて眠れないし。病院にいくとMRIをとられますからお金がかかります。ちょっとねえ。んなわけで体調は最悪。でも、いろいろあって、なかなか休めないしね。日頃のおこないが悪いから、ちょっと、さぼると冷たい目線だしね。3月も超忙しい月になりそうだし。あーあ。
姜尚中さんは、言うまでもなく、気になるオピニオンの1人です。ナショナリズムの問題もふくめ、その鋭い議論は、私にとってもとても刺激をうけてきました。
さて、その姜尚中さんの新著がこの新書ですが、あいかわらず十分読みごたえはあります。
入門書ですが、政治学の理論書という面ももちます。ナチズムをはじめ、政治権力の暴走に、思想家たちはどうむきあってきたのか。学ぶべきことはたくさんあるなあと、とても刺激にもなりました。
ただ、理論の面にもふれたものですから、どうしても違和感をもらざるをえない点もあります。たとえば、現在において天皇制がどのような政治の面でのポイントになっているか、なども私の理解とはちがいます。ナショナリズムの形成のなかでのひとつの装置ではあることは同じですが。
歴史認識などについても、ちがうかなあ。歴史の相対化ということにたいする理解がちがうのです。ドグマが大きな力をもった時代のあとには、認識の相対化が必要なことは事実です。が、まったく基軸もなく相対化するのはどうでしょうか。その結果、姜さんのもちあじであるリアリズムが、なんとなく観念的なものになっていると思えますが。このあたりはアジアの問題のとりあげかたにもあらわれています。
日本のいまを考えるとき、戦後の総括にもどって考えるべきだという指摘は同感です。
姜尚中さんとは2度ほど、あいさつだけ(一言二言の会話)をかわしたことがある程度です。これからも注目はしていた人ですよね。
今日は、どこにいってもこの話題でもちきりですね。
朝、テレビを見ていて、彼女の伸びやかな演技は、ほんとにほれぼれしましたから。表彰台の姿は、まさにアジアン・ビューティーです。でも、まあミキティ派の私としては、もうちょっと彼女の笑顔を見たかったなあ。かつて、燃え尽き症候群なんてことが言われたことがありますが、もう1つ心にもやもやがあるような、体と心が一体でないような感じですね。
荒川さんは、ほんとのびやかでした。スルツカヤなんてガチカチだったものね。日本人は精神的にもろいなんていわれたのはウソのよう。
選手たちの、より強く、より速く、より高く、より美しく、より巧みに――オリンピックはやっぱり見ていて、私たちの励みになりました。
ただ、あたらめてオリンピックのあり方も考えさせられます。とくに、冬季のオリンピックは、夏季とちがって北半球の、めぐまれた国の大会だと。見せるスポーツ=商業主義の影響を強く感じざるをえません。しかも、日本の選手は、個々の選手をみればそんなにめぐまれたわけではないのですから。
心から、人間が好きになれるような、そんなオリンピックであってほしい、そう願うんですが。
とりあえず、荒川さん、おめでとう!!!
人民日報のweb版から 中連といわれる共産党対外連絡部長の発言が紹介されていた。
「中日与党交流協議会」の初会合が21日と22日、北京で開かれた。会合では中国共産党中央対外連絡部の王家瑞部長が基調発言を行い、中日関係に対する原則的な立場を全面的に筋道立てて説明した。王部長の発言の要旨は次の通り。
現在の中日関係は正常でなく、調和的でもない。中日関係はまさに、どこへ向かうかという歴史的試練に直面し、正念場の十字路に立たされている。現在の中日関係が抱える問題の根本的な原因は、日本の指導者が第2次世界大戦のA級戦犯を祀る靖国神社を執拗(しつよう)に参拝していることだ。中日の善隣友好協力関係を発展させるという中国の(共産)党や政府の方針は明確であり、願いは誠実であり、態度は真剣だ。しかし、日本側からの積極的な反応は得ていない。国交正常化後にやっとのことで築いた中日友好関係を、日本がなぜいわゆる普通の関係に変えようとするのか、中国には理解できない。……
産経新聞のWEBのニュース。「流出元は通信担当の海曹長。『秘』扱い海自データ流出。許可を得ずにデータ複製、私物のパソコンから。処分を検討」――これって、自衛隊員が、軍事上の機密の情報を自宅のパソコンにうつして、それが例のウイニーにかかわるウイルスで、流出したっていう事件。なにこの事件。
米軍が、最近、やたらと自衛隊と共同訓練を強め、なおかつ、基地の共同化をすすめている1つの理由に、自衛隊が、闘う部隊としての水準からほど遠いことにあるからとも言われている。しかし、志願制をとるアメリカでは、「ロングウオー」をたたかうには兵員不足が懸念されている。だから日本の自衛隊を早く一人前にしたいというわけだろうが。
この軍事機密に米軍がらみのものがあったかどうかは定かではないが、いずれにしろ、アメリカの怒りが聞こてくる?
やっと大きな仕事の山がひとつ越えたところです。いつも同じようなことを言っているような気もしますが。まあ、今夜はほっとする一日です。今月の仕事は正直かなりハードだったんです。しかも、2月は短いし……。
んなわけで、あまりしっかり読書もすすんでいないし、ここんところあんまり運動できずに、急にまた太ったりしているし。
今夜から、少し、運動したり、勉強したり、軌道をもどさないと。
間もなく七〇年がたとうという南京事件は、今なお、大虐殺否定論がくり返されている。著者(笠原十九司)は、南京事件研究の第一人者。これまで、アメリカなど公表した資料などをもとに研究をすすめてきた。著者が、その成果のうえに三年前に南京近郊の村々、そして南京場内の体験者を訪ね、被害の実相を聞き取った記録が本書だ。
本書の冒頭には、現段階での研究の到達点に立った事件の概説が載せられている。年齢的に「遺言」とも言える被害者たちの証言は、私たちがこの「加害」に誠実に向き合あうべきことを強く迫っている。垂れ流される否定論をめぐって問われているのは、イデオロギーの問題ではなく、いかに事実に向き合うかにある。むすびでは、中国における南京事件研究の現状も紹介されていて興味深い。
土曜日に、久しぶりに飲み会がありました。少し遅めに参加したんですが。カラオケにもつきあって、でも新曲を最近仕入れていないので、何とかしなきゃいけませんね。
さてさて、最近、飲み会のあと、どうしようもなく落ち込みモードになります。何とかく、心重く重くなるのです。理由なく、こういう精神状態になるのはあまりいいことではないかあとは思っていますが。少し、落ち着いて自己分析をするならば、①加齢からくる精神的な重荷、②体力の衰え、③仕事の疲れ――やはり今月もハードでちょっとコントロールがうまくいかなかったかな、④いろいろ人間関係をうまく対応できないでいるなどなどでしょうか。年齢を重ねると見えてくる、自分のよわさというのもありますよね。まあ、3日ぐらいたつと、それでも何とか心をコントロールして、前を向こうとするのが自分のしたたかさでしょうかね。
もっと、反省して人間的に豊かなれればいいんですがねえ。なかなかできないのが難しいところです。人間的にいい人っているじゃないですか。なかなかなれませんね。でも、それでも元気ですから、とりあえず。
昨日の毎日や朝日には、つぎのようなベタ記事が載っていました。
安倍官房長官:ライブドア事件は「教育が悪いからだ」
安倍晋三官房長官は16日夜、東京都内のホテルで、小泉純一郎首相と自民党総務会メンバーらとの会食に同席した。安倍氏はこの中で「ライブドア事件(の原因)は規制緩和と言われるが、教育が悪いからだ。教育は大事で、教育基本法改正案も出したい」と述べ、同方改正案の今国会成立に意欲を示した。
最近、なかなか本屋にいくことができなかったのですが、久々に買いだめをしてきました。さて、この間買った本は、
・『日本の教育と基礎学力』 COEプログラム東大基礎学力研究開発センター 明石書店
・『変化する社会の不平等』東京大学出版会
・『少子高齢化の死角』高橋伸彰 ミネルヴァ書房
・『ルービン回顧録』日経新聞社
・『聯想』日経BP社
・『経済学的思考のセンス』大竹文雄 中公新書
・『姜尚中の政治学入門』姜尚中 ちくま新書
そしてもらった本
・『フリーター漂流』
・『南京事件』
です。
経済学が多いのは今の問題意識です。
中国残留邦人の東京地裁裁判の判決があった。被告の特別な被害を認めながら(ここは、大阪より前進)、国家賠償にはあたらないとした。
日本から3度捨てられた、この人たちの人生。その戦前と戦後の歴史をなぜ、裁判は裁かないのか。先日の横浜事件でもそうだが、日本の裁判にかけているのは、法理にこだわるあまり(もちろん、それが正しいかどうかも問われなければならないが)、正義というものを軽視していることにあるのではないか。この人たちの被害の責任を裁くのは裁判の固有の責任だ。政治が、一刻も早く、その責任を明確にし、救済の措置をとるとともに、司法に正義をもとめたい。
いまアメリカ社会は、どうなっているのか。新聞を読んでいると、何かしら、ブッシュ政権は政治的にはいろいろ問題をかかえているということはわかる。外交的にも、イラクは破綻しているし、南米でもいろんなことがおこっている。アジアに対しても、少しつき合い方を変えているのかなとも思う。
実際のアメリカ社会はどうなっているのか。9・11直後の、あの熱狂的な戦争熱はどうなったんだろうか。あまり、トータルにアメリカのことは報じられることはないし、もう一つ、よくわからない。
団地で、管理組合の活動などをしていると、大企業のサラリーマンがたくさんいて、仕事で海外に行く人も少なくない。が、その多数はいま中国を仕事相手としている。ちょくちょくアメリカにいくという人は案外少なかったりする。
何年か前、「アメリカの分裂」などが言われ、アメリカの格差の拡大が注目されたことがある。アメリカ社会は、それからより、格差は拡大している。アメリカの象徴的な企業であったGMなどでも、巨大なリストラが進行している。ALF-CIOなどの労働運動も大きな行き詰まりのもとになる。その背景には、いうまでもなく、経済の投機化にある。アメリカの経済は、製造することによる経済から、明らかに、投機による儲けを追及する経済と変貌している。
そんなアメリカ経済を知りたくて、スティグリッツを読んだりした。『ルービン回顧録』は、そのルービンの経歴から見ても、アメリカ経済のおどろくべき姿を見せてくれる。いま、ルービンが、クリントン政権に参画する下りまで読み進めているのだが、そこには明らかに竹中が手本とする経済の姿があるとも思う。
アメリカを知ることは、世界の行方を知るうえでの重要な要素だ。そんなことを思いながら、ひさしぶりに、アメリカ経済を扱った本を読みあさっている。
オリンピックで日本選手が「不振」であると言われている。私も、個人的には、日本選手を応援したくなる。なぜ「がんばれ日本なのか」ということをときたま考える。身近だからかな?
かつて、20代のころ、職場でサッカーチームをつくっていた。当時は、代々木公園のサッカー場が、週一で一般に開放されていて、昼休みに、そこで試合をした。いつも試合相手は渋谷郵便局のチームだった。そのチームは、東京の4部リーグのチームだった。日本がまだ、ワールドカップに出たこともない時代だったけど、そういう世界大会につながっているという感覚があった。
中学のころ、バレーボールをしていた。同じ地域に、全国優勝をするチームがあり、そういうチームと同じ大会をたたかった。そういうチームからは、当時の強豪であった大商大高や藤井寺工業にいく選手もいた。つまり、世界ははるか遠いところにはあるが、同じ世界の出来事でもあった。
つまり、応援するこということには、何かしら、”参加している”という共有観というものがベースにあるようにも思う。だから、上村愛子はかっこいいと思うが、選手たちがそうであるように、メダルをとった選手たちはよりすごいなあと単純に思う。
ナショナリズムそのものに、何かしら弊害があるわけではない。そのナショナリズムが内包する価値観が問われているんだと思う。そして、メディアをふくめ、そのナショナリズムの内容が、偏狭であったりすることに問題があるんだと思う。人間らしい豊かな価値観を共有できなことにこそ問題がある。
とわいえ、五輪の日本選手を見ていて、その困難な実態には、心もつまる。夏季五輪にくらべ、競技環境があまりにも劣悪だ。夏季五輪のさいも、女子ホッケーなどが遠征費もままならない実態がクローズアップされた。冬季は多くの選手が、個人の努力にまかされている。私たちの社会自体の質の問題なんだと考えたいと思う。
子どもたちの学校での学習内容を規定する学習指導要領の改定の作業がすすんでいるそうです。まず、中教審で議論がすすんでいます。13日に、その審議内容について報告する文章が発表されました。
まだ、熟読したわけではありませんが、気になる内容がいっぱいです。
もともと、学習指導要領の改定が、前倒しですすめられようとしているのは、ここ数年の学力論争がその背景にあることはいうまでもありません。いわゆる「ゆとり教育」へのバッシングです。文科省の内部でも「ゆとり」派対「学力」派だとか、「改革」派対「守旧」派などいろいろな言われ方をしました。政治の世界では、自民党を中心に、アンチ・ゆとり派が跋扈していると言えると思います。
しかし、中教審の議論は、アンチゆとり派の巻き返しかと言えば、そんな単純ではありません。やはり、一昨年のPISAショック、OECDの学力調査の結果が大きく影響していると言えそうです。とくに、その結果から、やたら国語力だとか思考力というのが強調されているのが特徴です。ざっとながめての感想ですが、この報告がそうていしている学力観については、よく検討が必要な気がします。たとえば、子どもの社会性ということが強調されていますが、どちらかと言えば労働力として社会によく対応できる能力のことを指しているような感じで、社会に主権者として参画していくような力のことではありません。
さらに問題なのが、こうした教育のすすめるシステムについての記述です。市町村や学校に権限をと言っていますが、しかし、教育到達目標は国が決め、その結果を国が管理するというのですから。この国の設定した目標に対する結果を、国が評価をするというのは、新たな国家統制につながります。しかも、条件整備を文章では言いながらも、実際の予算では国の支出が減らされるわけです。この間すすんでいる、学校選択の自由化など競争原理の導入と、学力テストなどにより評価と管理がどんな教育をつくりだすかは、想像がたやすいことだと思うのです。これらは、フィンランドをはじめ教育先進国というれるような国ではすでに否定した施策であったりします。少なくとも、どこにも成功のないモデルを簡単にすすもうとしているのです。
こうした議論にたいしては、しっかりと批判的な目で見つめていく必要があるようです。
いずれにしろ、詳論は後日に。とりあえずの感想です。
「しんぶん赤旗」に次のような記事が載っていました。
自営業者などが加入する国民健康保険の保険料(税)を払えない滞納世帯が全国で四百七十万世帯にのぼり、一年以上滞納して保険証を取り上げられた世帯が初めて三十万世帯を超えたことが、十三日までに厚生労働省の調査結果でわかりました。二〇〇五年六月現在の集計で、いずれも過去最高です。
記事は、さらにつづきます。
「この調査は日本共産党の小池晃参院議員が厚労省に要求していたもの。滞納世帯は四百七十万一千四百十世帯で、国保に加入している全世帯(約二千四百九十万世帯)の18・9%を占めています。一年前に比べ約九万世帯増えています。
国は、国保料滞納から一年以上たった世帯から保険証を取り上げることを市町村に義務付けています。保険証の代わりに、『資格証明書』が発行されますが、いったん窓口で医療費の全額を払わなければなりません。
今回の調査で資格証明書発行世帯は三十一万九千三百二十六世帯。資格証明書発行が全市町村に義務付けられる前の二〇〇〇年(約九万六千世帯)と比べ、約三・三倍に急増しています。
有効期限を三カ月などに限定した『短期被保険者証』の発行は百七万二千四百二十九世帯となっています。
政府が一九八四年に、国保の国庫負担を45%から38・5%に引き下げたことで、市町村の国保財政は悪化し、国保料の引き上げがつづいています。国保料が払えず保険証を取り上げられたために病院に行くことをためらい、命さえ奪われる悲惨な事態が全国で問題になっています。
『資格証明書』発行の市町村への義務付けは、小泉首相が厚相だった九七年の国保法改悪でおこなわれ、小泉内閣スタートの二〇〇一年度から実施されています」
私の、まわりにもこうした人は少なくありません。病院にいけずにいる人もいます。最低の医療を保障できないような社会がはたして、健全な社会と言えるでしょうか。「格差は悪いものではない」という人がいますが、まさにその、政治に対する根本姿勢が問われているのでしょう。
数日前の朝日新聞が社説で、麻生外相を批判していました。何も日本のメディアだけではありません。アメリカのメディアも辛辣な批判です。
麻生外相の靖国参拝発言など、米紙が社説で批判(日経)
(共同) 13日の米紙ニューヨーク・タイムズは「耳ざわりな日本の外相」と題した社説を掲載、靖国神社参拝などに関する麻生太郎外相の一連の発言を取り上げて「麻生氏の外交センスは歴史センスと同様に奇妙だ」と評した。
筑紫哲也のNEWS23を見ていたら、「沖縄で民間による戦没者遺体収容」のとりくみを報じていました。日本軍の壕があったとされる場所を調査して、遺体の収集をすすめているのです。行政は遺骨収集という言葉を使うのですが、とりくんでいる団体の方は、「遺骨でなく遺体、白骨死体だ」と言っていました。キャスターの佐古さんも言っていましたが、このブログで以前指摘したように日本の戦没者240万のうちまだ116万人の「遺骨」は放置されたままです。ここにも、戦争をすすめた政府、そして戦後、戦争の処理にあたった政府が、1人の国民や兵士というものをどのように扱っていかたがよくわかります。1つひとつの戦争と戦場の実相を明らかにし、その責任を明確にしてこそ、あたらしい一歩があるんだとつくずく思います。
もう1つのブログである「社説を読んで思ったこと」のカウントが、ついにこのブログのカウントを超えました。去年末にかなり接近したあとは、このブログもがんばって、すこしずつ接近という毎日でした。数日前にも差が2桁にまでせまったのですが、ここ数日、いったんはまた200ぐらいの差まで拡大。しかし、昨日あたりから接近。今日、一気に抜き去りました。さて、今後は、このまま差は開いていくのでしょうかね。どちらのブログのよろしくお願いします。
今度は、昨日の防災訓練で、救護訓練をやっているとき。イスをつかって、けが人の運搬の訓練で、もちあげたとき……。そのときはまだ大丈夫だったんだけど、今朝はもう痛くって。今日締め切りの実務と、夕方に取材もあり、腰をひきづりながら出勤という羽目に。情けなや。やっぱりやせることかなあ! ガックリ。
ものすごく、手に汗握って、興奮しました。ラグビー日本選手権準々決勝。社会人のトヨタを相手に、早稲田が勝ちました。社会人と学生のとの実力差がいわれて、ずいぶんたちますが、やっと学生が勝ったのです。強いFWに、大きなBK。早稲田以上最強といわれるのがよくわかるほどのチームです。とくにFWのがんばりはすごかったです。ラインアウト、そしてモールでのあトヨタを圧倒。スクラムも十分互角です。前半、個人の力で、トライをとられましたが、後半はその個人の動きも完全に封じ、FWだけではなくBKも、スペースを広く使って圧倒です。まさに力で、トヨタを押さえ込んだという試合でした。まさに清宮マジックでしょうか。ぞくぞくした試合でした。ハイ!
住んでいる団地では、1年に1度防災訓練をします。今日は、朝早くから、この防災訓練に参加しました。地震になったとき、いちばん何が必要か。たぶん、自分の人生のうちに地震に遭遇する確立はそんなに小さくありません。だからこそ、知恵をしぼってみんなでいろんなことを考えます。近所づきあいも、むずかしいですけど、大事は大事なんですよね。その力があってこそ、地方の政治などよくなるんでしょうから。
はじまりましたね、オリンピック。夜中なんであまり見られないですけど。ま、でも、応援したいものです。仕事でスポーツなどを担当していたとき、何人かのメダリストやそのコーチに会ったことがあります。ストイックなまでに、みずからの限界を超えるその姿には、ものすごく感動させられます。単純でしょうか、その姿には、やはりなにものにも代え難い価値があると思います。とくに日本の場合、スポーツを文化として、その価値にふさわしい評価がなされているとはいえないだけの、そのなかでも彼らの生き様は、考えさせられます。
さて、個人的な注目は、大阪ですから、スノボの成田童夢くん、今井メロさん!! がんばってほしいのは、アスリートとして尊敬しちゃう、清水宏保さんでしょうか。
いま、モーグルがはじまってます。ハラハラ、ドキドキですね。
今日は、午前中は、千葉松戸市で開催されていた集会に、午後からは、東京の星陵会館でおこなわれた集会に行ってきました。東京の集会は、かつて若いころ、渋谷の山手教会で行われていた頃に、直接運営にかかわっていたことがあります。それだけに思い入れもあり、毎年、参加するようにしています。
さて、松戸の集会は、都留文科大の笠原十九司さんの講演です。日本と東アジアの市民が直接交流するようになった時代のもとでの、日本の政治がそれについていけず「過去の克服」という課題を追っていること、そのもとで新しい動きとしての3カ国での共通教材づくりの意味や内容について話されました。あいかわらず、情熱的なお話でした。
昼からは、澤藤統一郎さんと吉田裕さんの講演。澤藤さんは、明治憲法下の信教の自由の構造が、神道は宗教ではなく、神社参拝は「臣民たるの義務」とされていたことにふれ、自民党の新憲法草案が、現在の日本国憲法20条をどのように変えようとしているのかを分析。三項の国、地方自治体の宗教行為の禁止について、77年の津地鎮祭最高裁判決の目的効果基準のうえにたってつくられていることを紹介。現在の動きについて、とくに、この20条が、ふたたび国家神道の復活を防ぐという意図、宗教的情念で国民精神を戦争遂行に動員することへの歯止めを目的としてつくられたということに、なるほど、と思いました。20条3項について、目的効果基準にたつにしても、歯止めになっていること、9条2項と同じように条文に書かれることによって、その歯止めはなくなるということなども興味深い指摘でした。憲法は、国民が政府をしばるものということはよくいわれることですが、国家と国民の関係を考えさせられた講演でした。
吉田さんの話は現在のナショナリズムの特徴を解明、小泉首相の靖国参拝など攻撃的なナショナリズムの広がりにふれながら、実際には、伝統的なナショナリズムは退潮傾向にあることを指摘。国民の意識のうえでも天皇を中心としたナショナリズムは後退していること、靖国神社の崇敬奉賛会会員も減少傾向が止まらないことなどを紹介。対アジア外交が袋小路に入っているだけではなく、遊就館に代表される特異な歴史観(自存自衛の戦争)がアメリカやヨーロッパに知られるようになって欧米からも反発をまねいていると指摘しました。「保守派」のなかにも分岐が生じ、皇室典範改正問題や改憲問題もからみ、靖国問題は矛盾の焦点になっている、と指摘しました。小泉流のナショナリズムが、復古的な皇室の権威にもとづかない国家的な統合の強化にあること、そのあたりが皇室典範改正問題で復古派との分離と生んでいるとの指摘は、うなさせました。
若者との共感関係を模索するのは吉田さんならでは、でした。
政治ジャーナリズムの世界というのは、こういってはなんですがかなり大ざっぱな世界でもあります(苦笑)。勇気をもってえいやのきったはったの世界なのかもしれません。ただ自分は結構、繊細でいたいと思ってもいます。
気分的にすりきれたとき、実は最高の気分転換は料理です。結婚するまでは、米も炊いたことのないような人間ですが、いまはそれなりにこっていますが。日常的に、料理をせざるをえない状況もありますが、はてさて、自分のつくる料理が大ざっぱなところが苦痛なんです。繊細な料理をつくれるようになりたいなあというのが、最近の願いでもあるんですがね。
西山事件って知っていますか? 外務省機密漏洩事件ともよばれ、沖縄返還協定をめぐって、国際法上の義務である軍用地の返還に伴う復元の補償で、米国が払う事となっている400万ドルを、実際には日本が肩代わりするという密約があったことを毎日新聞社政治部の西山太吉記者がスクープ。1972年に外務省の機密文書漏洩の疑いで西山記者と外務省の女性事務官が逮捕された事件です。2人の個人的な関係をとりあげ、いかなる取材方法でも報道の自由は無制限に認められるかが争点となり、西山氏らが有罪に問われました。
その後、2002年、「米国立公文書館保管文書の秘密指定解除措置」で公開された「ニクソン政権関連公文書」の中から密約の存在を示す文書が見つかりました。報道は事実だったのです。そして、長く、その密約の存在を否定していた外務省が、2月8日、共同新聞の取材に対し、対米交渉を担当した当時の外務省アメリカ局長が、「返還時に米国に支払った総額3億2000万ドルの中に、原状回復費用400万ドルが含まれていた」と述べ、関係者として初めて密約の存在を認めたのです。
今日の沖縄タイムズの社説が、この事件をとりあげていました。密約が「国家権力によってないものにされた事実については決して忘れてはなるまい」と指摘します。国家の犯罪を告発した記者らを、国家公務員法違反容疑で犯罪者とした政府の責任の重さも指摘しています。そして、「西山氏とともに取材を続けながら、政府の意図に乗る形で『記者と外務省職員のスキャンダル』に終わらせてしまったメディアの責任も問われなければなるまい」と自省しています。本土のメディアにこういった議論がないことは残念ですが、この問題もわれわれが歴史の見直しとして、考えるべき問題でしょう。
今日、横浜地裁は、横浜事件とよばれる、太平洋戦争中、政治学者細川嘉六氏の論文をてがかりに、「日本共産党再建計画」をでっちあげ、神奈川県特高警察が戦争に批判的だった約六十人の知識人を検挙し、拷問で獄死するなどした言論弾圧事件で、厳しい拷問などで強要した自白を証拠に、半数近い人が終戦後の一九四五年八月中旬から九月下旬にかけ、横浜地裁で有罪判決を言い渡され、そのまま刑が確定した裁判の再審で、すでに治安維持法が撤廃されていることを理由に、「免訴」の判断をしました。
つまり、特高警察が拷問をしてつくりあげた虚偽の自白を唯一の証拠にした有罪判決の誤りは問わないというのです。元被告の無実を証明して名誉回復をはかることを閉ざすとともに、権力犯罪の実態を明らかにすることを拒否した判決です。ここ何回か、韓国における歴史の見直しについて紹介してきました。裏返せば、日本の民主主義が問われているのです。寒々しい思いをせざるをえない一日でした。
仕事は、今年になっても、結局、結構忙しく……。相変わらず、日曜日も休まず働いています。もちろん2月11日は、気分として休む気になれません(苦笑)。ここんところは、先日やった、座談会などの整理をすすめながら、遅れてしまっている数カ月の企画づくりをすすめています。その合間に、アメリカ論をふかめる。
んなわけで、電車のなかでは今日も『ルービン回顧録』を読んでいるのですが、ばくち打ちの親玉が、自分の賭場をどうしきるかという話といえばもともこもないんでしょうが。財務長官だったんですよね、この人。ところが、最初のメキシコ危機のところでも、実は、実体経済の話はひとつも出てこないんです。出てくるのは金融市場の話だけ。まあ、これが、アメリカ経済というものなんでしょうか。そして、話はゴールドマン・サックス時代の投機の話に突入していくのです。
家に帰って、ニュースを見ると、皇室にかかわる話(これはもう1つのブログに書きます)、そして虐待の話、ライブドア、耐震偽装と。なぜ、虐待という悲惨な事件がこうも続くのか。当初は、社会的に光があたるようになったからという理解もできましたが、少し、危険な領域に入っているような気がします。金融投機が経済を覆う社会では、人間というものが大切にされず、社会事態が、人間を大切にするということにたいして鈍感になってきているのではないのかなどと思えて、暗澹たる気分になってしまいます。教員の盗撮の問題なども今日は報道されていますが、個人の問題もさることながら、社会全体の病理と言うことにもっと敏感になれるような感覚を再生していくことも大きな課題なんだと思えてならないんですが。
今の世界がどんな方向で動いているのかというのは、ぜひに深めたいテーマですよね。軍事的な覇権主義の裏には、経済的な覇権をめざす動きがあります。同時に、アジアや中南米での新しい動きの背景には、アメリカ型の新自由主義経済政策のゆきづまりも見え隠れします。スティグリッツを読んで、昨日の内橋さんを読んで、そこで、少し、前の時代についての回顧録ですが、『ルービン回顧録』なども読み始めています。のっけから、95年のメキシコのドフォルト危機からはじまります。グローバル化のなかで資本の自由化がすすむなかでおこったこの危機。ルービンは、クリントン政権の財務長官として、市場原理主義をつらぬいたことでも知られています。彼らなりの、危機への対応、結構、興味深そうですね。
昨日のチャン・ドンゴンの話題への追加です。同じく昨日紹介した『戦後60年を問い直す』という本のなかでの坂本義和さんの講演の一節です。坂本先生は、日本におけるアジアの民主化へ鈍感さを指摘しています。それは、アジア諸国で、民主化がすすんだために起きた戦争中の日本の支配による被害への補償を求める動きへの反応の鈍さにあらわれています。と同時に、それがアジアの民主化と連動していることへの鈍感さ――つまり、韓国などの「反日」の動きが、単純なナショナリズムではなく、民主化のなかで、自国の現代史にまで、メスを入れ、その歴史の見直しの過程で起きている、そういうことへの共鳴がないという指摘です。なるほどと思った一節でした。
☆のまほうさんのブログで知ったのですが、ブラザーフッドなどでおなじみのチャン・ドンゴンさんが、「ソウル市中心街で6日、韓国国内映画の保護を訴えてプラカードを持つ「1人デモ」を行い、注目を集めた」そうなんです。「米韓自由貿易協定(FTA)妥結を目指す韓国政府が、国内映画の上映義務日数を現行の146日から半減させる方針を決めたことへの抗議で行ったもの」と言います。
韓国:人気俳優ドンゴンさんが「1人デモ」
たたかう韓国の俳優たちの姿には強く共感を覚えます。
また、明日にでも、エントリーしようと思うのですが、この隣国の民主主義の発展を、ついうらやましくも感じてしまいます。日本は鈍感だというのは事実だと思います。
朝日新聞を読んでいると、ときたまどうようもなく、腹立たしいときがあります。今日の社説「格差社会 改革の中で考えよう」などがそれです。
たしかに一面ではじまっている、高島平団地を舞台にした、格差社会の特集記事は、するどいものがあります。が、その格差社会についての、論評が、なぜこの社説の内容なんでしょうか。社説は、問題を「再挑戦が難しい社会」ということに限定してしまいます。ほんとうにそうでしょうか。人間が大切にされない社会そのものの構造を問題にしなければならないではないでしょうか。
社説は、「財政の危機は深刻だ。格差の現状を見極めたうえで、どんな是正策を、どんな組み合わせで導入するのかを、冷静に議論しなければならない」「格差を理由に、日本を公正で効率的な社会にするための構造改革をやめてしまうこと」を警告までします。さらには、「格差拡大のすべてを構造改革のせいにはできない。改革のなかで景気回復は進んだ。それを認めたうえで、公正な社会に近づけるにはどうしたらいいか、景気回復の果実をどう分配するか、それを考えよう」とまでいいます。私には「景気回復」と言われる状況をもたらしたのは、相変わらずの外需と、そして、リストラや雇用の流動化によるコストダウン、そして、バブルにもにた「投機的経済」の拡大のように思えてらないのです。
はたして、「公正で効率的な社会にするための構造改革」なるものを検証しているのでしょうか。「景気回復」なるものの実相を分析をしているのでしょうか。大きな疑問をもたたざるをえないですが。
『世界』がおこなった2度のシンポジウムがおさめられたのがこの1冊。一般の聴衆に語ったものなので、わかりやすい内容になっています。全体として、共感できる内容で、前半の坂本義和先生の、戦後の原点と憲法を活かす立場の問題提起も刺激的ですが、後半の格差社会についての議論がおもしろかったです。
最近の政治や社会についての問題を考えるとき、気持ちが悪いと思うことが多かったのですが、その理由を解き明かしてくれるのが、この1冊という気がします。「人間が大切にされる社会」という問題意識をより深めてくれるのです。貧困化を装置とするアメリカ型の経済、グローバリゼーションの進行の中で、日本で温存される、特権的な政治。それは財界と官僚が一体となる政治。現在の日本を覆う競争原理の正体がどこにあるのか、結果、人間を差別するのではなく「排除する」社会になっているという告発。などなどです。
「自由とはなにか」という刺激的な問いかけがあります。マルクス主義の陣営でも、マルクスの言う「自由の国」の問い直しがおこなわれているのですが、ここでの「自由」ということの問い直しの提起は、少し通ずるものがあるような気もします。そう考えれば、対峙していく方向も明確なんだと思います。
「人間の条件」の小林正樹監督が、5年間かけてつくったといわれる「東京裁判」のDVDを、たまたまTSUTAYAで見つけて、思わず借りてきてしまいました。何しろ、5時間を超える大作です。仕事から帰ってきて3日間ほどかけて見たのですが、少し眠ってしまったり。ひっしになって見ました。
第二次世界大戦後の1948年、東京都市ヶ谷の旧陸軍省参謀本部において開かれた「陸軍国際軍事裁判」の模様を収めた米国防総省の記録フィルムを基につくられています。第一、こんな映像が残されていたことが驚きです。それだけでも貴重な昭和史の生々しい真実を綴るドキュメンタリーとして見る価値は、十分あると思います。
裁判の進行にそくして、この裁判の争点となったものが、紹介されます。そもそも、この裁判所に裁く権利があるのかというところからはじまり、共同謀議の真理性、天皇が裁かれなかったこと、アメリカなどの戦争犯罪は裁かれなかったことなどなど。そして、裁判の論点のなった事実審理についても、さまざまな映像を駆使して紹介されています。
たしかに、東京裁判は、その評価のむずかしい裁判です。個人的には、大きな国際法の確立過程の裁判ですから、たんに法理というだけですべて議論できるわけではないとも思います。つまり、歴史のなかにおくなかで、評価をしなければなりません。
その評価にかかわっても、さまざまな角度から切り込んでいます。どちらかと言えば、弁護人側の主張がていねいに紹介されていると言えるかもしれません。パル判事の主張なども紹介されています。が、同時に、東京裁判の問題を指摘しつつ、パル判事は、日本の行為が正当かできるわけではないと考えていたことも紹介されています。
戦争被害、つまり日本軍国主義の加害などについても、さまざまな角度から描かれています。もちろん、裁判にそくしていますから、従軍慰安婦(日本軍「性奴隷」)や強制連行、731などにはふれていないし、 泰緬鉄道について、またシンガポールでの華僑の虐殺などもにふれていません。
東京裁判は、この映画がいうように、その時代を反映した国際的な裁判です。肝心なことは、私たちが、もう一度、この裁判を歴史の中において位置づけ直しながら、もう一度、私たち自身の手で、戦争の責任という問題をとらえ直すことではないでしょうか。そんなことを考えさせられた映画でした。
Quadrennial Defense Review、つまり米国防総省が、4年ごとに公表している「国防計画見直し」が発表されました。ここんところ軍事オタクかしている私としては、まちにまった文章です。原文を手に入れ、翻訳も手に入れなど、いろいろ手を打っているところです。ま、少し時間はかかるでしょうが。
さて、朝日新聞はQDRについては、次のように報じます。
米国防報告、対テロは「長期戦争」 海軍、太平洋に比重
ま、見出しにやや誤解があるにしても、
米国防総省は3日、米軍戦略の今後20年間の基本的な指針を示す「4年ごとの国防政策見直し」(QDR)の報告書を発表した。01年9月の同時多発テロ以来、米国がイスラム過激主義に対して続けている戦いは、冷戦並みの労力と時間を要する「長期戦争」だと位置づけた。対テロなど、従来通りの戦力では十分に対応できない「非正規」な分野に軍事力の比重を移すことをうたっている。
今日、未明?のエントリーが不十分だったので、書き換えて再度、アップします。昨年2月、見た人に衝撃をあたえたNHKスペシャル「フリーター漂流」が1冊の本になった。番組の取材をベースに新たな取材も重ねられている。また、番組では出されていない内容もあり、よりリアルに迫るものとなっている(活字の力も捨てたものではない)。
90年代後半から、急激に増えるフリーター。規制緩和と競争力強化の裏側で、確実に使い捨てられている若者の姿がそこにある。つまり、金融の投機による利益を最大限追求する資本主義は、製造の現場、サービスの現場でも、最大限の利益も求めて、はいえなのように若い労働力に襲いかかる。いま、若者の働く現場は、どのように過酷で、無権利か。私たちは正直、直視しなければならない。追加取材では、模索する高校教員やフリーターとなっていく若者の姿も描かれている。そして30代を迎えるフリーターの絶望がそこにある。読者にとって、それはすべて共感できるものではないかもしれない。同時に、描かれていない現実もある。たとえばフリーターの対極にあり、ぼろ布のように働きづめで、命をけずらされる若者たちの姿だ。
これが資本の本性か、はたまた日本でこそあらわれている現象なのか。そのどっちもなんだろう。そして、この本を読んで、思うことは結局こういうことだ。彼ら、そして、私たちは、安心や安定を望んでいるわけではない。人間らしい生活を望んでいるんだ。その人間らしい生活を許さないのが、いまの社会なのではないのか。著者は言う、「むしろ大切なのは私たち『大人』の覚悟だ。経済大国として享受している豊かさを取り崩してまで、若者たちを育てる場所を社会のなかにつくらなければ、根本的な問題の解決にはつながらない」と。だからこそ、人間が大切にされる社会をと、問い続けなけれなばないのではないのか。
11日からはじまる社民党大会で採択する「宣言」の草案では、自衛隊について「現状、明らかに違憲状態にある」と明記しているそうです。94年に村山首相が、自衛隊「合憲」を表明して以来の迷走に終止符をうち、自衛隊の「縮小を図り、国際協力などの任務別組織に改変、解消して非武装の日本を目指す」としています。
一方、共産党の志位委員長は、これにたいし「前向きの変化」と評価。憲法問題での共闘について「社民党からの回答を待っているところだ。大事な問題だから、先方も、これを検討するのに一定のプロセスや事件が必要だということは、当然、私たちも理解している」とのべたそうです。
この10年間の社民党を見ていても、かかえる複雑な事情は、あるていど推測できます。だからこそ、福島党首の勇気を期待したいと思います。そのためにも、私たちが、政党の動向に一喜一憂することなく? 草の根からの、憲法を守り、生かそうという声を広げることが大事なんだと思います。
防衛施設庁の談合事件は、自民党政治の深い闇をあらわにしているとつくずく思います。沖縄タイムズの社説でも、紹介されていますが、この間、井上哲士参議院議員(共産)の質問で、「防衛施設庁に設置された地元調整実施本部の事務担当者が、庁内と那覇を含む全国七カ所の地方防衛施設局の米軍再編担当者にメールを送り、地元議会で反対する意見書を議決する動きがある場合は回避するよう、働きかけを依頼していたことが明らかになった」のです。アメリカの要求のままに、基地の再編・強化にまい進し、国民の議論にまで介入する。その一方で、米軍再編の舞台になっている、岩国基地をはじめとして、談合がくりひろげられ、官民の癒着がくりひろげられていたのです。あまりにも省庁ぐるみの犯罪です。
いったい小泉さんのいう「改革」とは何だったのでしょうか。もう5年も首相に地位にあり、しかも、この間何度も指摘をされていた舞台での事件なのですから、これまで手をつけられたかったなどのいいわけが通用するはずがありません。つまり、この舞台では、基地の再編にしか関心がなかったということなんでしょうか。結局「改革」とは、こうした癒着を絶つことに目的があるわけではなかったわけです。「改革」が後に残したものは、「痛み」であり「格差」だったのしょうか。「改革」と言うものの目線は国民になかったのです。そんな自民党政治の深い闇をしめした事件といけるのではないのでしょうか。
少し、白バラづくなかで、その古典的名著である、『白バラは散らず―ドイツの良心ショル兄妹』を読みました。兄妹の姉であるインゲ・ショルによる伝記です。
大きな感想としては、どうしても日本との違いを感じます。ドイツでも日本でも共産主義者による抵抗は存在しました。が、なぜ、普通の学生たちが命を張った抵抗がくりひろげられたのか。日本でも、清沢洌や渡辺一夫など、決して天皇制権力に精神的には屈服しないような人々はいたのですが、ドイツの白バラとは質的にはちがいます。そこには、精神の自由さをもとめる、幅広い教養というものが、あるていどの層の人々に共有されていたということがあるように思えてなりません。そして、そうした教養を支えるような文化やその物質的条件というものがドイツにはあったのでしょうか?
この本に紹介されている、白バラの1人、フーバー教授の陳述は心残りました。
その一節から
大反逆の審判も、わたしから大学教授の尊厳と、
世界の国家に対する見解を堂々と勇気をもって公言する
人間の尊厳とを奪うことはできない。
厳しい歴史の流れは、
わたしの行動と目的の正しさを証明してくれると思う。
明日は、二男の公立高校の受験。合格した私立のほうが、偏差値がだいぶ高いこともあり、塾の先生には”もったいない”と言われ、少しは、動揺したようだけど。それでも、「自分の性格は、公立のほうがあっている気がする」という、彼の選択は、それはそれでいとおしい。まあ、あの内申では、ちょっと公立はむずかしいかも?
ふとしたことで、二男の保育園の卒園の時期のことを思い出す。当時、彼を抱き上げた、その感触もよみがえる。そんなことをつれ合いに言うと、不思議そうな顔をされた。
ちょっとしたきっかけで、読んでいなかった、スティグリッツの早稲田講義録を読んでいます。クリントン政権の大統領経済諮問委員会委員長をつとめmその後は世界銀行で上級副総裁、主席経済学者をつとめたノーベル賞経済学者の日本での講義は、経済になじみのない人でもわかりやすく、かつシャープだ。彼の主張は、明確だ。「市場は完全なのだ」と市場を賛美する、市場原理主義はあやまりだということ。「見えざる手」などは存在しないということだ。そこから、わかることが2つある。アメリカのかかえる病理、もう1つは、そのアメリカを無批判に日本にもちこむ、小泉・竹中「改革」の底の浅さだ。まあ、そんなことを問いかけても、竹中さんの反論は想像できようが、それでも、太く、根源的な批判こそが、いま必要なんだと、そう思った。
何なんでしょうこれは。潮目が変わったとかう水準ではありません。今日の新聞の社説は、「防衛施設庁談合
」が中心です。
この問題は、もう開いた口がふさがらないほど悪質です。構造的に談合が温存され、組織的な天下りがおこなわれ、高級官僚は(この高級というのが大事でしょう!)、大きな利益を手にする。なんですかこれは! 新聞で、実態を読んでいると、あまりにもあまりです。もちろん、こうした構造で甘い汁をすっているのが、大企業であることも見過ごしては行けません。しかも、閉鎖・秘密官庁である防衛施設庁については、くりかえし談合事件がおこり、問題となってきたわけですから、政権に自浄能力がないことは明らかでしょう。
ただ、注意しなければならないのは、このさい防衛施設庁を防衛庁に統合し、ついでに「省」にしてしまおうという、火事場泥棒のような動きです。そもそも、こんな閉鎖的な組織に、「省」になるような資格はありません。監視こそ必要でしょう。
さらにBSE問題での中川答弁の問題です。中川農相の発言は驚くばかりです。でも、問題はもともと、政府は、日本の政府として、米産牛肉についての調査、検査をする気があるのかということだと思います。アメリカの検査が、抜け穴だらけという指摘をうけながら、アメリカが検査しているから大丈夫という論理を強調し、そのとりつくろいが、政府答弁書であったわけでしょうから。国民の安全や健康など、政権の中心的な課題でない。この政権の本質があらわになったのではないでしょうか。今後も、強い監視が必要だと思います。口先だけの反省なんていりません。
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