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政治の世界では驚くようなことが続きますね。今日は今日で、BSEをめぐっての中川農水相の発言は驚きました。さて、最近の驚いたことに、麻生外相の、靖国神社に天皇の参拝を求めた発言があります。この発言は、逆にいえば、この神社がどんな性格を歴史的にもってきたのかを証明したものになっているのですが、その天皇のための戦争と言うものをそのまま認める形での発言ですから、開いた口にふさがらないのです。
A級戦犯の合祀以降、天皇は、靖国神社に参拝していません。それだけではなく、地方の護国神社にも、A級戦犯が合祀されているところにはいかないというのが基本方針です。天皇の側から言えば、かつての昭和天皇の戦争責任の問題と直結するような問題だけに、ありがた迷惑な話でしょうね。
一方、今日の「朝日」で論説主幹の若宮啓文氏が、先日の『論座』での渡邊恒雄読売新聞主筆との対談を紹介していました。たしかに、この対談は、渡邊恒雄氏が「靖国神社の本殿の脇にある、あの遊就館がおかしい。(略)軍国主義をあおり、礼賛する展示品を並べた博物館を、靖国神社が経営しているわけだ。そんなところに首相が参拝するのはおかしい」 「小泉さんは政治をやっているんであって、イデオロギーで商売をしているんじゃあない。国際関係を取り仕切っているのだから、靖国問題で中国や韓国を敵にするのは、もういい加減にしてくれと言いたい」 など、きっぱりとした発言が注目されました。若宮氏は「渡辺氏が踏んだ今度のブレーキは、自らも関与した言論状況の右傾化が行き過ぎて、危険水域に入ったと見てのことではないか。」と言います。
この「読売」の態度は大きな意味があると思います。「産経」をのぞいて新聞は、ほぼ、首相の靖国への態度は批判を表明しています。麻生発言を見ても、異常ともいえる侵略戦争への無反省政治を改める、重要な局面を迎えているともいえるのかもしれません。
『官邸主導―小泉純一郎の革命』という本を読みました。正月に読み始めたので、ちょっと、時間がかかりました。90年代、細川内閣以後の、官邸主導の政治への模索をふりかえったものですが、同時代の歴史をふりかえることは十分刺激的で、いろいろ考えさせられることの多い一冊でした。
90年代以後の政治をふりかえると、長いスパンで考えたとき、自民党政治が貫いてきたことには、1つは財政再建、もう1つは規制緩和などによる産業構造の転換ということがあげられます。つまり、それまでの、公共事業と対米輸出のよる経済の拡大という路線が破綻し、一方でグローバルな経済の展開の中で、金融自由化に大きくふみだすという方向です。そのためには、それまでの族議員のルートでそうした経済界の要望を政治に反映するというシステムから、中心的な産業を核とした経済団体がその要求を直接、自民党=政権に反映させるシステムへの転換が求められたのだと思います。そのはじまりが小選挙区制であり、その後の2大政党制やマニフェスト政治の展開だったのですから、小泉首相によるコイズミ政治の展開はある種、必然性をもっていたことがよくわかります。
ただ、よくわかるのは、この政治の転換は、政権内部の、支配層のなかでの、権力争いという性格から出るというものではありません。重点が変わっただけで、財界奉仕、大企業奉仕の政治と言うことは純化されこそする、なんら変わりはないのです。だからこそ、この政治には大きな弱点があることがわかります。それは、政策的には、「構造改革」というものが、ごく限られた人の利益を代表するにすぎないからこそ生まれる脆弱性です。そして、官邸主導という方法ですすめたがゆえ、政策に国民の多くの利益が反映されないと言う弱点です。これまでは、族議員というルートで、まがりなりもに自民党は国民と接点をもち、その要求を一面としては反映するという面をもっていました。今の自民党は国民との接点が弱まろうとしています。マニフェストをかかげ、国民の審判を仰ぐというルートでしか国民とのむすびつきをもてない。自民党が、国民との多様なむすびつきをもって政策にその要求を反映するというシステムを見つけることができないでいるのです。今後も、自民党の支持基盤は解体していかざるをえないのです。案外、コイズミ政治というものは、脆くて弱いのです。そんなことを考えながら、この本を読んでいました(もちろんそんなことが書いてあるわけではありませんが)。
問題は、そんな「構造改革」の正体や、自民党政治の性格について、しっかり議論することだと思います。異常な政治なんですから。ただ、この本は、小泉さんの異常な外交やアメリカ追随の安全保障にはまったくふれられていません。トータルに、小泉政治までの流れを考えてみたいなとも思いました。
フィンランドに学ぶ教育と学力というシンポジウムに行って来ました。会場につくなり、入り口が行列になっていて、ものすごい人です。明治大学の300人ぐらいの教室ですが、あっという間に満杯です。一昨年末に発表されたOECDのPISAという調査で、「学力世界一」として、政府も、メディアも、研究者も注目のフィンランド。関心の高さは、深い思慮もなくあまりにもクルクルかわる日本の教育のありように対しての閉塞感の反映なのかもしれません。
シンポジウムでは、まず最初に、中嶋博早稲田大学名誉教授があいさつ。教育基本法改悪や教育の分野でも格差が拡大する日本のいまの政策動向への強い憤りをふくめたお話は、この老研究者の熱い思いが伝わってきました。
つづいて、「読売」の西島記者のフィンランド取材の経験、少人数の学級、読書量、考えさせる授業あたりがキーワードでしょうか。渡邊あやさんという若い研究者の方が、フィンランドの教育の現状を、データも使いながら紹介。「小さな格差」ということと「教師の質の高さ」というのが印象的でした。島根県立大の高橋睦子さんが、フィンランドの福祉国家の実相についての報告。教育の土台には格差のない厚い福祉国家があることが紹介されました。同時に、新自由主義的な政策が、このフィンランドでも導入されていることも紹介されました。つづいて、北海道教育大の庄井良信さんと、都留文科大の田中孝彦さんが、フィンランドでの教育調査について報告。フィンランドの子どもたちが何を感じているのか。新自由主義的な動向の強まりの中でいまどんな模索がすすめられているのかということの問題提起がおこなわれました。
正直言って、このシンポのもとになった『フィンランドに学ぶ教育と学力』という本も買ってはいたんですが、読み切れていませんでした。シンポに参加して、あらためて、フィンランドの教育の基本が、競争や格差の拡大ということと正反対の、寛容、共助というものにあることがよくわかりました。同時に、グローバル化の進行というもとで、経済的な要請からも、その基本をふまえながらも、いろいろな模索がなされていることも興味深いことでした。
シンポが終わった後、少し、ある先生とおしゃべりしたのですが、グローバル化の進行のもとでの新自由主義の動向と福祉国家政策との関係は、もっと、社会科学の課題として分析する必要があると言われていたのですが、重く受け止めなければと思いました。
いずれにしろ、日本の政策当局も意識せざるをえないフィンランドの教育。あいかわらず日本の政策サイドは、つまみ食い的な受け止めなんでしょうが。私たちの問題として、この国が提示している問題を受け止めたいもの。十分刺激的なシンポジウムでした。
白バラの祈りの公開を記念して白バラ映画祭が開催されています。昨日と一昨日は、82年につくられた『白バラは死なず』そして『最後の5日間』が上映され、今日は、シンポジウムです。出席者は、フランツ・ミュラー(元白バラメンバー 81歳)、マルク・ローテムント(『白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々』監督)、ミヒャエル・ヘルホーファン(『白バラは死なず』監督)、レナ・シュトルツェ(『白バラは死なず』『最後の5日間』主演女優)です。今日は、このシンポジウムに参加してきました。
感想は、ものすごく面白かったです。まず、白バラの生き残りであるミュラーさんの話。その発言は、ナチの政権が、本来のドイツの憲法にももとづかない不当なものという強い信念に貫かれています。日本では、侵略戦争をおしすすめた政権に反対してたたかったのは共産主義者ですが、ドイツの白バラはいったい何の信念にもとづいていたのか。少しわかったような気がします。とくに、ナチ政権が長続きするはずがないという、戦場研修でみた事実をもとにもった希望というものの強さというもののすごさを感じました。
ゾフィーの信念は何にもとづいていたのかは興味あるところです。ローテムント監督は、1に虐げられた人々への共感、2に好奇心と言われていました。もちろんその契機は宗教的なものであったことは想像できますが、話を聞いていて、もう少し普遍的なものであるような気もしました。会場で『白バラの声』というショル兄妹の手紙の本を買いました。感想は後日。
今では、白バラのたたかいは、ドイツでは誰でも知っている事実です。が、戦中のナチによる人民裁判の見直しがおこなわれたのは80年代半ばのこと。見直しには長いたたかいがドイツであったそうです。82年のとき映画をつくる苦労と、今回の映画作りとはまったく条件がちがったと監督は言っていたことが、印象的でした。同時に、この若い監督が、「我々は歴史から学ばなければならない」と言っていたことが大事だと思いました。今の日本に暮らしていると、つくづくそう思います。
『白バラの祈りーゾフィー・ショル、最期の日々』公開記念の「ゾフィー・ショルと白バラ展~ヒトラー政権に抵抗し、命を散らした学生たちの記録~」が 2月3日(金)~2月8日(水) 、有楽町朝日ギャラリー 11Fでおこなわれます。
ドイツ・ミュンヘンの白バラ財団が当時のメンバーたちの写真を展示した「白バラ」展の日本語版に映画『白バラの祈り―ゾフィー・ショル、最期の日々』の名シーンを加えたゾフィー・ショルと白バラの回顧展です。映画とともに、こうしたものにもふれるなかで、いまの日本を考えたいものですね。
実は、昨日のもう1つのブログに次のようなことを書きました。
ホリエモンの事件にかかわって、小泉内閣と自民党の責任を問う社説が並ぶ。小泉内閣がホリエモンを選挙で支援した責任を問うだけのものと、より踏み込んで、「構造改革」のあり方を問うものにわかれるが、大事なのも、すべてが、小泉内閣の責任をあいまいにできる問題ではないことを指摘していることだと思う。この問題でも武部幹事長や首相自身の態度そのものにも疑問を呈している。選挙でも圧勝を背景に、驕りともいえる発言をくりかえしてきた自民党・小泉内閣だが、耐震偽装問題とあわせ、「改革」のありようにかかかわることを議論せざるをえなくなっている。経済格差をめぐる認識もクローズアップされている。政治の流れを変える、大きな契機になってほしいし、そうする必要がある。ここは野党がしっかりした論戦をすすめることができるかが問われる。そのがんばりに期待したい。
TBをいただいた桜樹ルイ16世さんのブログにゾフィー・ショルが戦場の恋人にあてた手紙が紹介されています。
確かに私たちも、より強いものの勝利を信じるけど、でもそれは精神において強いということなの。そしてこの勝利は、おそらく私たちの制限された(とても美しいが小さい)世界とは異なった世界を支配しているのよ。いいえ、この世界でもそうかもしれないでしょうけど、でも、とりわけ光り輝いて見えるのはやはり別の世界でよ。だからこそ、この世界でも同様に、そのような勝利を得ようという努力のしがいがあるのだわ。
( 『ドイツにおけるナチスへの抵抗1933-1945』 現代書館 より )
仕事は山場を越えました。今月は少し楽なはずが、それでも、山場を越えるとクタクタです。そもそも体力が落ちているのです。そうそう、階段を登るのも息切れがします(笑い)。軽やかな動きにならないのです(笑い)。体重を落として、少し、体力をつけなくてはいけません。そうそう、運動をはじめなければいけません。でも、なかなか思うように時間もとれないし、気力がねえ。何からはじめればうまくいくでしょうか。
さて、子どもの受験も最初の山がすぎ、一応、希望通りの結果に落ち着いてます。つれ合いのほうは、すでに武装解除って雰囲気ですがね。2男のほうも関心はすっかりゲームのほうにいっているような……。
あまりテレビドラマは見ない方ですが、今回は、この「神はサイコロを振らない」は見ています。ストーリー自身は、残された側の再生の物語なんでしょうね、きっと。
水橋文美江の脚本は文句なくいいですよね。夏子の酒からはじまって、みにくいアヒルの子、ビギナー、光とともに…、みんな昔は子供だった、とこの人の優しいドラマは、なぜか見ています。今回も小林聡美はいいですしね。ちょっとした楽しみです。
ホリエモン逮捕の衝撃は、政界をも直撃しています。自民党は「事件と衆院選で自民党幹部などが応援したこととは別問題だ」と、弁解にやっきです。
少し驚いたのが、今朝の「朝日」で読んだ昨日の自民党の総務会の様子。加藤紘一元幹事長が「カネですべてが片づくという考えの人を応援したのはいかがなものか」とただすと、武部幹事長が「カネは加藤氏だって苦労したわけだから……」と応戦したとか。もちろん、これは加藤氏の事務所の脱税事件をさしているわけですが。小泉首相にいたっては、メディアにやつあたりです。「あのメディアの持ち上げ方、何ですか。自分の持ち上げ方を棚にあげて、改革まで私の責任と批判している」と言ったといいます。
どこまで、ひらきなおろうというのでしょうか。痛みを感じず、人間が人間として尊重されるということが理解できない人たちは、腐敗だとかには鈍感なんでしょうか。こんな人たちが、政権の中枢をしめ、こんな議論しかできないんですから。ホリエモンの責任とともに、そのことを私たちはよく考えなければならないと思いますね。
ホリエモンが逮捕された。時代の寵児としてメディアでもてはやされた、彼は、あっけなく墜ちていった。今日の新聞は各紙とも、この事件一色である。国会の代表質問でも、この問題がクローズアップされている。新聞の論調をみれば、一つは、このライブドアおよびホリエモン自身の問題。もう一つは、小泉「構造改革」との関係を問うもの。
いうまでもなく、この事件は、ライブドアとホリエモン固有の問題とともに、それが舞台となった、株式交換や株式分割、投資事業組合というものは、90年代後半から規制緩和で自由におこなえるようになったのだから、政治の責任はまぬがれない。
日本では証券取引を監視するシステムが十分に機能していない。その責任も重大だ。日本特有の問題もあろう。同時に、世界の資本主義が、投機による利益を最大限追及するそんな流れも背景にあろう。何か自分自身、金融のことはよくわかっていないなあと痛感させられる。自分の言葉で、もっとこの問題への怒りを語れるようになりたいなあと思って、少し焦ってしまうのだが。
子どもは入試のまっただなか。とりあえず、最初の関門はクリアして、ほっと一安心というところ。発表を見に行っても、連絡してこないので、親は多少はヤキモキしましたが……。いよいよあと一ヶ月です。
さて、昨日の入試の面接で、二男は、「趣味はなんですか」と聞かれたそうです。で、答えたのは「プラモ」。おいおいそれってオタクじゃないって思うんだけど。そんな、話をしているとき、つれ合いが「あなたは自分のこと好き?」と、子どもに聞いた。「うーん、好きなところもあるけど、嫌いなところも。まあ、どちらかというと好きかな」と。
私自身は、自分のことを好きって思ったことはあまりありません(苦笑)。うーん、自分のことを大好きなつれ合いと、まずます好きな子ども(多分、長男も好きなんだろうなあ)。とても、彼らが健康的に見えます。十分、立派に育っているんだなあと、ちょっと、驚きでもあったのですが。
みなさんは、自分って好きですか?
共同通信で、今日次のようなニュースが配信されていました。
共産、社民が改憲阻止共闘 26年ぶり、国民運動強化
共産、社民両党は23日、憲法改正の阻止に向けて共闘関係を構築することで一致した。近く共産党の志位和夫委員長と社民党の福島瑞穂党首が会談して正式合意する。共産党によると、両党の共闘が成立するのは約26年ぶり。
……共闘に向けた申し入れは、共産党の市田忠義書記局長が同日午前、社民党の又市征治幹事長と国会内で会談して伝えた。
志位「憲法擁護のたたかいをすすめるうえで、両党の関係を発展させることを願っています」。
福島「自分たちには院内外での両党の共闘についてのためらいはいっさいありません。障害はありません」。
志位「いまの発言はたいへん大事だと感じました」。
今日は、子どもの入試でした。雪がまだとけていないので、足下が悪く。何かあったらと、地下鉄を利用して受験にいくため、会場まで送っていった。親ばかですね。この子には甘いのです。父は。
朝早く送っていったので、10時前に帰宅し、すぐ2度寝。2時すぎまで爆睡。すると、子どもが帰ってきた。こちらは自分の体験だけではなく、うえの子の体験もあるので少しは慣れたものだけど、子どものはじめて。緊張したかな? 疲れたかな?
夕方、団地の会議があった。直前に気がついて、あわてて参加。1時間半ほど。そんな一日。
実は、これmixiに書き込んだもの。先月ぐらいに加入したんですけど、よくわかりません。
昨日、BSで「シルミド」についてのドキュメンタリーをやっていました。仕事で見られなかったので、友人に録画は頼んでいます(ので、感想は後日)。そう、韓国が北朝鮮に潜入されるために、特殊部隊を養成していた話です。韓国は、歴史の「負」の部分にも向き合い、見直しをすすめようとしています。光州事件などの現代史はもちろん、目をひくのはたとえば東学農民革命にたいする見直しです。かつては、政府に対する反乱で処刑された人々でしたが、現在では、朝鮮独立の源流として評価されています。
日本はどうでしょうか。たとえば、戦前戦争に反対した人にたいしてはどうでしょうか。治安維持法で逮捕された人々は、たしかに法律上は「刑をうけざりしもの」とはされています。が、政府が謝罪したとかいうような話も聞きません。ましてやその名誉が十分に回復したと言えるのでしょうか。戦後は、どうでしょうか。
最近、吉田茂の『回想十年』という本をパラパラとめくりました。数ヶ月前、近所のブックオフで2、3巻を1冊400円で購入、ネットで古本を、1巻を240円で、4巻は2000円で購入。しめて3000円強です。大先輩のジャーナリストが、おれは8000円で買ったと言っていましたから、まずまずでしょうか。この『回想十年』を読んでいて、驚いたのは、レッドパージのくだりです。ずいぶん一方的な言い分で、ある特定の政治集団か国の機関や企業から排除されていたのです。こういった人々の名誉はどうなったのでしょうか。
ブラントやヴァイツゼッカーの言葉を引用するまでもなく、過去を反省しない国は、現在に盲目です。これは対外的な課題だけではなく、国民にたいしても同じことが言えると思います。日本はどこに向かおうとしているのか。現代史をふり返りながら、そのことを考えたいと思います。
すごい雪でしたね。これだけ積もるのは、さすがにあまりありません。都心より私が住んでいる東北方向の近郊部のほうが、つもっていました。職場にいくのはTXなので雪の影響はあまりないのですが、週末の仕事をこなすには、雪のなかに出る必要もあるので、今日はさすがにつかれました。
明日は、二男の高校入試です。心配です。
「格差が広がっているのは誤解」という小泉首相の主張は、政界のなかでも波紋を広げています。公明党の神崎代表は、内閣府の見解にたいして「私が全国を回って現場の声を聞いた実感、それから民間のデータなどを見ると、明らかに格差は拡大している」「現場の状況をしっかり把握しないと、政府は有効な政策を打てない。政府は現場の状況を把握して対策をとっていただきたい」と批判したというのです。
ここで、ふつふつと疑問がおこってきます。昨日、小泉首相がおこなった施政方針演説は、みずからがすすめる「構造改革」の成果について、誇らしげに賛美するというものでした。経済はうまくいっていると言い切っています。つまり、この格差が拡大しているかどうかは、国がこれからおこなおうとしている経済政策の前提になる基本的な認識にかかわる問題だということです。ここで、公明党は、自民党と食い違っているというのなら、なぜ与党にとどまるのでしょうか? そんなことでは政策を語る資格そのものが問われないのでしょうか。
ここには一面としては、今の小泉政権の路線では、国民とのあいだに大きな亀裂を生み出さざるをえないということをしめしていると思います。しかし同時に、公明党との関係で言えば、今後おそらく、逃げ道がつくられていることも予想されます。谷垣財務省が、「錬金術のような形で大金持ちが生まれていいのかというと、額に汗してきちっと努力して報われることがなきゃいかん」という会見をおこないました。つまり、ライブドア問題などで焦点となる、株取引の規制の仕組みをつくるとか。大竹さんの本に書かれているような、失業者やホームレスについての部分的な対策をうつとか。
いまの政治が生み出しているこの「経済格差」「不平等」という問題を、正面から問いかけるような政策議論は正直、いまの与党では期待はできません。だからこそ、大きな声で、この問題を問いかけることが必要なんだと思います。
米国産牛肉、再び輸入禁止…危険部位が混入(読売新聞)
やはりというか、開いた口がふさがらないというか……。
政府は20日、輸入された米国産牛肉に、BSE(牛海綿状脳症)の病原体が蓄積しやすい特定危険部位の脊柱(せきちゅう)が混入していたため、12月に再開したばかりの輸入を、再び全面禁止する方針を決めた。
安全が確認されるまでの措置。食品の安全性をめぐる議論の末に、一度は決着した米国産牛肉の輸入禁止問題は、振り出しに戻る。米国側のずさんな対応と同時に、米国に対する配慮から輸入再開を急いだ日本政府への批判も強まると見られる。……
私が住んでいる地域の「9条の会」の立ち上げの集会が今日ありました。300人をこえる参加で、なかなか素敵な集会でした。若ものが多かったというのも特徴で、これまでの地元であった集会とは、まったく雰囲気のちがうものでした。仕事だったので、参加できたのは、ほんの最後の最後だけだったのですが、10代、20代、30代の発言があいつぎ、会場にも若ものの熱気がありました。地元の運動もすてたものではない! うれしく思いました。関係者のみなさんごくろうさま。
今日の「朝日」で気になった記事につぎのようなものがあります。
社会問題化している所得格差の拡大を示す指標とされるジニ係数について、内閣府は一九日、「数値上の上昇は見かけ上の問題だ」として、格差拡大論を否定する見解を公表した。
昨日発表された月例経済報告に付された資料に、この見解が掲載されています。昨日、紹介した小泉首相の発言は、こういった議論をふまえてなんだろうなと想像することができます。
それは、「所得分配の不平等さから貧富の差の大きさを示すジニ係数について、内閣府は、厚生労働省の所得再分配調査や総務省の家計調査などをもとに分析。係数は上昇傾向だが、元来所得格差が大きい高年齢世帯や、核家族化の進行で所得の少ない単身者世帯が増えたのが原因で、所得格差の拡大は見せかけ上のものだ」という主張です。
この主張は、特段、目新しいものではありません。昨年、ベストセラーになった、大竹文雄の『日本の不平等
格差社会の幻想と未来』などの議論がそれです。
この議論などを読んで感じることがあります。1つは、統計のもつむずかしさです。格差や不平等は、統計のとり方で、変わるという問題です。
朝日の記事には、格差拡大問題を論じている橘木俊詔京都大教授のコメントが紹介されています。
家族の人数を考慮して調整した所得を使い、核家族化の影響を除外しているOECDのジニ係数上昇データを、内閣府はどう説明するのだろうか。また高齢化が原因というが、高齢の貧困者が増えている問題をどうするつもりなのかと問いたい。
今日の朝日新聞に、18日夜の小泉首相の次のような発言が載っていた。「だんだん、経済状況は良くなっていると。富裕層とそうでない層との格差が広がっているというのは誤解であると、みんなが分かってくると思いますね」と言うのだ。あきれるばかりの言葉である。同じ記事のなかで、2年ほど前の「不況、不況と言うが、東京ディズニーランド、新丸ビル、そして六本木ヒルズ、みんな大盛況だ。経済は、言われるほど悪くはない」という発言も紹介されている。
所詮、この人には、見えないことがあるんだと思う。先日紹介した、生活保護切り捨ての現実など、この人の視野の外にある。外交でも同じだ。この人には、「アジアの怒り」や「危惧」はまったく視野の外にある。そして、見えないものは、議論のテーマから、排除してしまうのだ。この狭く、限られた視野で、政治が議論されれば、いったい日本はどうなるんだろうか。日本の政治は間違いなく危険領域にある。暗澹たる気持ちにさせられた記事だった。もはや、この人たちに政治を任すわけにいかない。そんな世論をもっと広げなければいけないと思った。
先日、米空軍嘉手納基地所属のF15戦闘機が提供訓練空域で訓練中、伊計島の東約75キロの海上に墜落した。すでに嘉手納基地での訓練は再開されている。本土の新聞では、なかなか、報道されないが、沖縄では、「またか」という激しい怒りが広がっている。沖縄タイムズは言う
1994年4月には、嘉手納基地を離陸直後のF15戦闘機が嘉手納弾薬庫地区内に墜落。95年10月には喜屋武岬の南約90キロの海上で、2002年8月には訓練中に公海上で墜落している。本島の南方約200キロの訓練空域で、4機編隊での訓練中に2機が接触事故を起こしたのは04年10月だった。03年度にあった54回の航空機の緊急着陸のうち6割はF15戦闘機によるものだ。
米軍再編の中で嘉手納基地のF15戦闘機部隊は新田原(宮崎)、築城(福岡)、百里(茨城)、千歳(北海道)などの自衛隊基地での分散訓練が盛り込まれている。関係自治体や住民はこの事故をどう受け止めるのだろうか。
訓練空域での事故とはいえ、県民の生命を危険に陥れていたことに変わりはない。事故の多いF15戦闘機部隊は即刻撤退すべきである。それが県民の総意であり、政府もその点に留意し欠陥機の飛行を差し止めるべきだ。
新聞社説をテーマにした私のもう1つのブログの調子が、最近、あまりよくありません。「ただいまサーバが大変混み合っています」と、すぐエラーになります。ちょっと負荷がかかりすぎているようです。そんなわけで、少し、更新の仕方も検討が必要なようですね。こちらのほうでお詫びしておきます。
今日は、二男の高校の受験のための願書の提出です。東京の私立を2つ回りました。そういっしょに。何か親バカ、甘すぎる?? でも、二男は、どうも東京の人混みのなかを、目的地までいけるのか、どうも心配というか、無理っぽそうで(笑い)。田舎もんですから。
それはそうと、高校受験は、長男に続いて二度目ですが、あまりいいものではありません。この弊害なども、これまでくり返し指摘されているにもかかわらず、そして、いろいろな教育「改革」なるものが行われているのに、どうして、ちゃんとしたメスが入らないでしょうか。競争に乗っかってすすむもの、競争からおりるもの、その真ん中……。しかし、この時代の子どもたちにあたえる傷は少なくないように思います。
もちろん受験だとか、競争だと、すべてが無意味だとは思いません。でも、この年代の子どもたちにふさわしい教育制度の探求が、なぜ、真剣にすすまないんでしょうか。「改革」はいつも目先の思いつきだけにとどまるのでしょうか。大人って知恵を出さないなあと反省させられたり、申し訳なかったりするのですが。
耐震構造偽装事件の、小嶋社長の証人喚問のその日に、ライブドアへの強制捜査です。証券取引法違反(風説の流布など)の容疑だそうです。何か政治的思惑も感じますが。
さて、この事件は、ライブドアが一線をこえたという性格の事件ということなのでしょうか? いまの日本の資本主義のありようをももしかしたら問いかけているのかもしれません。ちゃんと、いろいろ考えていきたいとは思いますが、この間すすめられてきた、金融の規制緩和(ビッグバン)と無関係だとは思えません。
だいたい、投機などによる経済の澱みは、いつの時代でも起こります。資本主義の本性が「利潤第一」にあるならば、あぶくのような投機で利益を得ようとする傾向は常に生まれうるのですから。歴史をふり返ったとき、資本主義は、その発展のために、この傾向をいかにコントロールするかに腐心してきたともいえるではないでしょうか。が、その規制はつねにより大きな、投機を求めて規制緩和がすすめられ、それに対応するというくり返しという面をももっています。90年代以降にすすめられてきた規制緩和は、この「利潤第一」の規模も、その矛盾もいきつくところまですすんでいるというような感じがします。実体経済、つまり、直接の「富」の生産とむすびつかないような経済活動が、おおつくすような世界が私たちの目の前にあるのですから。
社会は明白に、そのシステムそのものの変革を求めているのではないでしょうか。深く、えぐってこの問題をみつめたいなあとも思いますが、いかがでしょうか。
日曜日の深夜というか、月曜未明、この「ニッポン“貧困社会” 生活保護は助けない」という番組を見ました。ものすごく衝撃的な内容でした。憲法25条のいう「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」の保障ともいうべき、生活保護という制度が、行政の手によって、その支給を制限され、うち切られる。事態は、うち切られたために餓死をする、そういう事件がくり返される事態にまですすんでいることをレポートしていました。抑制と打ち切りのため、申請窓口を元警察官や刑務官がになっている自治体もあるのです。その背景には、厚生省(当時)の通達123号(1981年)があり、さらに、財政的にも、その責任をきりしてようとする国の動きがあることを告発していました。
「勝ち組・負け組」を区分けし、容赦なく、切り捨てるそんな姿がまざまざとうかびあがります。貧困の「底が抜けた」と、番組は指摘していました。貧困はまだ多数ではないのかもしれません。が、底が抜けた社会が、万民に幸福な社会なのか、とわれている問題は大きく、深いと思います。
仕事と家族の事情で、九州に転勤する友人の送別会に参加してきました。かれこれ、二十年ぐらいのつきあいでしょうか? 学生運動にかかわるような集まりで、私的には、少し場違いだったかもしれません。が、いろいろ思い入れもあるような付き合いもありました。まあ、私はずいぶん、生活の場を変え、目の前にある人づきあいに必死で、まあ彼のような深く根をはるような人生をおくっていないことには少し、寂しさを感じないわけではないけど、まあ、恥ずべき人生をおくっているわけではないし。
20代から50代、いろいろな世代が集まり、それぞれちがった感じ方をしているのはわかります。みんな、この社会が少しでも豊かで、民主的なものになればと、いろいろな分野(研究者、教員、ジャーナリズム、議員、団体など)で活躍されている方ばかりです。その思いを1つひとつ聞き取るのもまた興味深いものがあります。そんなものも、自分の肥やしにして、少し前へすすめればと思いました。
実は、この映画も、みていませんでした。DVDばかりですね。今年の目標は、映画館で映画を見ることでしょうか。
さて、この映画。話題になっただけに、いろいろなことを考えさせてくれます。映画が描いているのは、ベルリン陥落直前の、ヒトラーとその周辺の人々の姿という、限られたものです。それだけにどうしても、賛否もふくめ分かれ、議論になるのでしょうが。
ただ、すごく思ったのは、戦争についての「記憶」ということと、その戦争の「語られ方」という問題です。映画もふくめ、私たちの目の前にあるのは、戦争そのものではなく、戦争の「記憶」です。つまり、いまの人たちが、かつての戦争をどう認識しているのか、そこにはその後の「修正」ということも反映しています。この「記憶」のされ方の、日本とドイツとのあまりにも大きな違いということです。それは戦後の積み重ねだということでもあるのだと思います。だからこそ、ヒトラーの「語られ方」そして、その受けとめ方は大きく違いのでしょうね。
そのことは、エンディングで、ヒトラーの秘書だった当人が、戦後にソフィー・ショルの存在を知って、自分のおこなったことが「知らなかった」「若かった」ということで許されないと恥じたと言っていることに象徴されているようにも思います。そう「白バラ」のショルです。「記憶」の問題だからこそ、私たち自身の問題として考えなければならないと思うのです。
KATEKさんのブログを読んでいて、無性に、キース・ジャレットを聞きたくなりました。このピアノは、好きですよ。ケルン・コンサート、フェイシング・ユー、ソロ・コンサート、スタンダーズ、星影のステラ、枯葉……。ひっくりかえせば、このぐらいは、出てきそうです。いまは、ケルン・コンサートを聞いています。この即興演奏は、どこまでも澄んでいて、無心に引き込まれます。
キース・ジャレットを聞いていると、なぜか、萩尾望都を思います。なぜでしょうか? 何かすり込みがあるんでしょうね? 好きな漫画家の1人です。
もう1つの私のブログ「社説を読んで思ったこと」のカウントが27000を超え、こちらのブログとの差が、ついに1000を切りました。かつては5000近く差があったのですが、ここのところ一気に縮まっています。社説の内容にしぼったブログなので結構資料的な価値もあるかもしれません。私にとっては、メモのようなものですが。いよいよカウントダウン! いつ逆転するのでしょうかね。
心に届く言葉をもっているかと、数日前に自問しました。そのことを痛感させられる問題に、沖縄の問題があります。何度か沖縄に行き、取材もし、沖縄の問題に関心を持ち続けてきました。でも、自分はこの問題についてどれだけのことをわかって発言しているのかと、新崎先生の『沖縄現代史(新版)』を読んで、感じたりもするのです。この新版は、まだ3分の1ほど読み進めたところですが、たとえば沖縄返還によって、沖縄の米軍基地の比重が増えたこと、返還のさい米軍優先をとりきめた「5・15合意」など、この返還のさいにも日本政府はいかに沖縄を犠牲にしたのかを痛感させられる事実があります。米軍再編についても、もっと心を揺さぶるような言葉で語りたいと思うのです。
カリフォルニアでおこなわれている陸上自衛隊と米海兵隊の、離島侵攻を想定した初めての共同訓練の様子が、テレビで放映されていました。先日の朝日新聞には、「離島防衛、日米で訓練 9日から南西諸島重視」という記事があったのはあったのですが。参加している陸自西部方面普通科連隊(長崎県佐世保市)は、離島へのゲリラ攻撃に備えるため02年に編成された専門部隊。いわゆる特殊部隊です。座間にできる中央即応集団の緊急即応連隊のモデルの1つだとも言われています。が、それでも、日本の部隊は、実戦に十分耐えられるような訓練がされていないというのが、アメリカ軍の判断なんでしょうか。
1月下旬からは、約10日間、西部方面隊と米陸軍第1軍団(ワシントン州)などが、健軍駐屯地(熊本市)でコンピューターによる戦闘シミュレーションを使った「日米共同方面隊指揮所演習」も実施されます。アメリカの指揮のもとで、機動的に戦闘に参加できる軍隊に自衛隊を変えていく。大きくかわる自衛隊と米軍との関係を象徴するようなできごとではないでしょうか。
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会の「そして問う、この国の過去(いま)」という集まりにいってきました。このJVJAという団体は、広河隆一さんや、森住卓さん、古居みずえさん、土井敏邦さんといったフォト(映像)・ジャーナリストがつくる団体で、日本と世界の社会的な課題に正面から向き合っています。その年次報告会。
第1部は、広河隆一さん(チェルノブイリ)、古居みずえさん(パレスチナ)、佐藤文則さん(ハイチ)、豊田直己さん(インドネシア・アチェ)、林克明さん(チェチェン)、綿井健陽さん(イラク)の報告。それぞれ大きな課題を背負う世界の報告だったけど、そのなかでしたたかに生きているパレスチナの女性を追った、古居さんの報告がいちばんよかった。彼女のドキュメンタリー「ガーダ」はぜひ見たいです。
第2部は、 「そして問う、この国の過去(いま)」と題して、 山本宗補さん、土井敏邦さん、森住卓さん、八重樫信之さんが長めのレポート。山本宗補さんは、 「老いの風景から見た日本とは」と題して。とくに、沖縄の戦争マラリアの生存者の姿と平和(9条)への思いは胸をうちました。土井敏邦さんは、 「従軍慰安婦」です。その半生を伝え、日本の加害性を改めて問いかけます。男性がどこまで、迫れるのかと思いましたが、よかったです。森住卓さんは、 「水俣」。すでに過去のものと思われがちなこの問題の現在の苦しみとたたかいを描きます。八重樫信之さんは、 「らい予防法の傷跡ー日本・韓国・台湾」で、日本国内と、韓国、台湾併せて15のハンセン病療養所を取材し、「らい予防法」によって人生そのものを奪われた被害が共通していることを報告していました。写真は、事実を伝えます。同時に、人間の姿をとおしてその事実を伝えることの強さ、説得力を強く感じさせてくれる、2部の報告でした。それぞれ、お近くで写真展があれば、見に行く価値のあるすばらしい作品の一端を拝見することができました。
今から数年前、年末の推理小説のベストテンは、『永遠の仔』が席巻していたとき、その対抗馬だったのがたしか、この『白夜行』だったと思う。あまりにも切なく、つらい小説だったと思う。その小説のドラマ化だ。子どもから大人へ、人物が大きく変化する物語だけに、ドラマ化はむずかしと思われる。はたして、成功するのだろうか? ストーリーテラー東野圭吾の世界をどれだけ再現できるだろうか。今回、いちばん関心をもっているドラマというところ。
13条の会というのをご存じだろうか。正式名称は、「国際人権A規約13条の会」。中等・高等教育の漸進的無償化を定めた国際人権社会権規約一三条二項(b)(c)の批准を日本政府が留保していることに対し、国連社会権委員会は、『留保の撤回』を勧告。その回答期限が六月に迫るなかで、無償化条項の意義を広げようと結成された会だ。この問題を2006年問題とも言う。
いずれにしろ、日本の高学費は世界に中でも突出した異常性をもつ。かくゆうわが家も今年は、学費だけで確実に180万円ぐらいいきそうだ。この会の活動には注目してもいい。
お正月に、久しぶりに会う人がいたり、年賀状で久しぶりにあいさつをする人がいます。活字を生業にしている人間にとって、そんなとき、たいてい自分が精魂込めておこなっている仕事が読まれていないことを知って、あらためて自分は、心に届くような言葉をもてていないのかなあと考えさせられてします。
少しして、落ち込んでいても仕方がないと、考え直す。自分は何もわかっていないのではないのかと。
たとえば、数日前(9日)、ロイターで「米国のイラク戦費、政府予想大きく上回る2兆ドル超に=調査」という記事が配信されていた。「イラク戦争の費用に負傷米兵への終身保険など長期的なコストを含めた場合、総費用は2兆ドルを超え、開戦前の政府試算をはるかに上回るとの調査報告が発表された。調査は、コロンビア大学のエコノミスト、ジョセフ・スティグリッツ氏らが実施したもので、負傷兵1万6000人に対する障害手当が含まれている。負傷兵の20%は、脳や脊椎に深刻な障害を負っている。それによると、米軍がイラクから撤退した後も、米国の納税者は長期にわたり、こうした費用の重荷を背負わされるとしている」というのだ。
たとえばアメリカについて論じる。「覇権国家」から「帝国」へと。ことは、そう単純ではない。平和秩序を求める世界と、アメリカ自身の困難とのサンドイッチのなかで、アメリカ外交にも変化がある……。何重にも重なる複雑な世界、いったい自分は何がわかっているのだろうか。それらを紐解き、心に届く言葉をもちたいと思う。
今日から、新学期。つれ合いも、久しぶりに仕事モードだ。二男はのっけから「カギがない!」。一日中大騒動して、結局、洗濯物のズボンのポッケからというあまりにも単純な結末。早く、受験に集中してほしいところだが。私学の入試まではもう二週間もない。
さて、つれ合いの大学も再開される。この正月は、あまり勉強していなかったようで、あわてて、そちらのほうも現実に引き戻されているというところだろうか。家に帰ったら、ひたすらパソコンに向かっていた。いずれにしても新学期だ。活気ある毎日であってほしい。
これも見逃していた映画をDVDで見た。見たい監督(阪本順治)の見たい俳優による映画である。
これはきっと評価が極端に分かれる映画でしょうね。たしかに映画としてはさすがに阪本監督の手によるものだけに、申し分なく面白い。自衛隊の全面協力もあり、迫力も十分だ。が、この映画は何を描こうとしているのか。単純に、軍事力や自衛隊を賛美したものではない。アメリカに追随し、主体性をうしなった日本の政治の一面は描かれている。それを軍事力で解決しようとする、自衛隊(のクーデター)そのものにも批判的でもある。
たぶん、現在の日本の課題をこのような設定でしか描けないことがいちばんの問題なのかもしれない。ほんとうに描かなければならない日本の危機はほかにはないのだろうか?
ちなみに韓国の人気女優のチェ・ミンソが不思議な役で登場している。なぜ、この人物が出てくるのかは映画を見る限りよくわからない。映画は1人ひとりの人物造形そのものに無理があるようだが。が、この映画に出演したために、韓国で苦労したようである。チェ・ミンソの所属事務所は「極右映画ではなく、日本自身を批判した作品で日本社会の病弊や無責任さを風刺した映画」と説明したそうだ。面白かったが、不完全燃焼感の残る映画であった。
東京都写真美術館に、「日本の子ども60年」という写真展を見に行ってきました。戦後60年の子どもたちの姿を148人の写真家、204点の写真家の作品でふり返るという写真展です。日曜日と言うこともあって、ものすごく込んでいました。入るなり、ぐっとぐる写真展で、1人でくるより、つれ合いときた方がよかったかなあなんて思いましたが。
40年代後半、50年代、60年代前半は、貧しさと困難のなかでの子どもたちの姿です。一方で、子どもたちの生の輝きが見いだせます。時間の変化もゆっくりしているように感じます。60年代後半から70年代は、公害、集団就職、交通事故、受験戦争という印象が強くのこります。80年代以後の変化は急激です。全体を見て、戦後の60年は、やはりものすごいスピードでその社会の姿を変貌させてきたように思います。
同時に、年を経るごとに子どもの写真をとることがむずかしくなっているように思います。決して、写真家の魅力がなくなったとは思いませんが。現在の子どもの内面を映し出すのには新しい方法が必要なのかもしれません。
さて、重松清は、いまの子どもたちも輝いていると言います。私も、そう信じたいと思います。が、そう言い切る自身はありません。が、戦後社会の中での子ども(つまり社会の未来)ということを考えさせられるすごくいい写真展でした。個人的には、神山洋一さん(故人)の写真が心に残りました。
今日は、久しぶりに若ものたちと、勉強したり、話し合ったりする機会がありました。歴史観みたいな学習でしたけど、どんなふうに社会をみるかという話から、自分の生き方や暮らし方、とくにこれだけ仕事がたいへいになっているなかで、どう社会に向き合っていくのはすごくむずかしい話です。しかも、どう、こういった活動を発展させるのかは悩みがつきません。5時間ちかく結局、いろいろあれやこれや話していたでしょうか。いろいろ力になりたいけど、それほど力がありません。それでも、できるだけ力になりたいものです。
まだ見てなかったこの映画のDVDを見ました! 最近、通勤経路を変えたため、いつも行っていたビデオ屋さんにいかなくなったんです。新しい通勤の経路でいいビデオ屋さんがなくて…。どなたか、秋葉原周辺で、いいビデオ屋さん、ご存じありませんか?
久しぶりにDVDを借りてきたのですが。この映画はさすがにエンターテイメントの王道をいくような工夫がいっぱいで、あいかわらず面白いですね。とくにこの作品は、バイプレーヤーのオンパレードというか。もちろん、ストーリーという点では、犯人の造形というものをまったく度返ししていますから。もっと、人間の臭いのするちがったストーリーもできるのではとも思いますが。このシリーズはたいていが若い犯人で、視線は冷たいですよね。
年末の東京での米兵のひき逃げ。今度は、横浜で米兵が女性を殺害したという事件です。容疑者は、空母「キティーホーク」の乗員で、すでに、殺害を認める供述をしているといいます。が、容疑者の身がらま、まだアメリカ側にあるようです。地位協定では、たとえ「公務外」で米兵が基地外で犯罪をおかしても、基地内に逃げ込めば、日本側が起訴するまでは米側が身柄を確保することを規定しているのです(ましてや、公務内では日本側は裁く権利もないのです)。
米軍基地の再編で、基地機能が強化され、より戦争する部隊化すれば、米兵犯罪は増えるのは必死です。国民の安全ということを政治の目的にあげるのならば、この問題は避けて通れない問題となりそうです。
読むのに、ずいぶん時間がかかってしまいました。通勤の経路を変えたため、少し読書時間が減っているのが影響しているのでしょうか、久しぶりの経済書で時間がかかったということもあるのでしょうか。でも経済書というよりも、戦後の日本政治経済史の貴重な証言です。とても興味深く読みました。占領下の日本の経済政策がどのような指向をしていたのか、いわゆる満州人脈とのかかわり、著者の大きな問題意識である、アメリカに追随したもとでの西側の一員としての役割を担わされた日本の経済……。高度経済成長と国の政治とのかかわり。そのなかで、生活大国や公害対策などの議論。田中政治の評価。80年代の中曽根そして、90年代の一連の改革から現在の小泉構造「改革」、一貫した流れがあるようで、「改革」の目的や方向は案外違っていることも読めばわかります。
現在の外交にたいする疑問視から、保守層なりの政策の目的における太さなども感じさせ、たくさんのことを考えさせられた一冊だったと思います。
三四郎さんのブログにコメントと「兵士たちの死に方を考えたい」というTBをつけたのにたいして、ていねいなエントリーをされていますので紹介しておきます。
『男たちの大和』というこの映画をとおして、私たちが考えなければならないことというのは、ほんとうに多いと思います。とくに私が考えたいのは、「私たちが知らなければいけない真実とはなんなのか」「いったいなぜあのような過酷な戦争がおこなわれたのか。だれが、あの犯罪に責任を有するのか」、そして、「いま、おこなわれている議論は、その真実から目をそらせるような役割を果たしていないのか」などかなとも考えています。
今週の、法学館憲法研究所の「シネマ・DE・憲法」は、この「男たちの大和」を取り上げています。そこでは、
この映画は、つくった人たち、演じた人たちも、また観る人たちもいろいろな価値観で観て、いろいろな感想をもつものだと思います。かつて多くの人々が国のために個人の利益を捨てて戦ったことを誇らしく感じ、その精神を今後も引き継いでいきたいと思う人も多くいるでしょう。一方、多くの人々が国のために犠牲になったという歴史の事実を後世に残し、二度と戦争はしてはならないと思う人も多くいるでしょう。
迫真の演技とリアルな映像、息をのむシーンが続き、多くの鑑賞者の印象に残る映画です。日本国憲法の「個人の尊厳」や平和主義の理念を学び広げていく上で、この映画を鑑賞する多くの人々と語り合うことも重要だと思います。
正月の新聞のなかで、気になった最大の記事は、やはり「朝日」の「就学援助4年で4割増」という記事です。就学援助とは、経済的な理由で就学に支障ある子どもの保護者を対象に、市町村がおこなう援助で、生活保護家庭に加え、市町村が独自に基準をさだめておこなっているものです。東京や大阪ではほぼ4人に1人、全国平均でも1割強にのぼります。東京でも足立区は突出していて、42・5%にのぼるのです。
塾や習いごとに一ヶ月に何万もつぎ込む家庭の存在の一方で、学用品や給食費の補助をうける家庭が、これほどの規模でひろがっているのです。しかも、それは残念ながら、義務教育の段階から、その学びにありように大きく影響をあたえるようになっているのも事実なのです。
20世紀の終わりから21世紀の初頭にかけて、働きながら、きわめて不安定で、貧困な状態におかれるという層が、ふたたびはっきりした大きな帯として存在するようになっているのです。この格差社会をどうみるべきなのか。この記事で、苅谷東大教授は、「機会の均等もなし崩しになっては、公正な競争社会とは呼べない」と、コメントしています。「底が抜けた」とも表現される社会状況のなかで、社会保障や労働法制など社会のありようが問われているのです。
数日前から、寒気はしていたのですが、無理はいけませんね。どうも疲れがなかなかとれていないようです。今年の目標は適度な休息でしょうか。そして、地についたしっかりした「考え」ということです。そのためにも、今日は、早めに眠ります。
昼間は、ぼーっとテレビでやっていた映画を見ました。この映画は、吉永小百合を好きな人にはいいんだろうけど。源氏物語のおもしろさは、残念ながら、再現されていません。紫式部と藤原道長を絡ますんだったら、もう少し、魑魅魍魎の世界と言われる、平安時代の政治的な背景が再現された方がおもしろいんじゃないかと。まあ、ぼーっと見た映画でした。
昨日は、いつもの仲間と新年会。まあ3時ぐらいからだらだらと、1人ふえ、2人ふえ、最後は何人ぐらいだったのかな。すっかりお酒に弱くなってしまい。悪酔いというか、早々につぶれてしまったようです。情けないですね。気がついたら、後片づけまでされていました。何か申し訳なくて。年明けから、酔って、かなり失礼なことをしちゃったんじゃないのかなあ。申し訳ありませんね。
そんなわけで、今日は、静かな1日を送りました。
元日に各紙の社説に目を通すというのが、毎年のはじまりの仕事です。元日の社説は、各紙の論説の責任者が書くことが一般的なならわしと言われます。その新聞の性格がよくでているのかもしれません。「朝日」は、ここ数年、斜めから見つめる社会論です。正直面白くはありません。「読売」は骨太の政治論です。朝日よりは正攻法ですが、市場原理の歯止めをいいながらそこから見えてくるのは、極端な国家主義的な姿勢です。「毎日」は、小泉政治のすすめなのか批判なのか、いつもながらよくわからない論説です。ことの本質に踏み込まないというのが印象です。「日経」は、いつもどおりの経済成長の探求です。「産経」は、正直滑稽です。東アジアへの敵視とアメリカ追随、なぜアジアへの問いをアメリカに向けないのか、誰もがすぐに感じる疑問でしょう。
年の課題は、むしろ地方紙が示してくれています。「東京」はアジア外交を問い、「北海道」と「中国」は、「構造改革」で生まれている「格差社会」を問います。そして沖縄は、米軍再編です。地方紙の正面からの問いにも学ながら、私も06年という年を問いつづけていきたいと思います。
あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。
久しぶりにのんびりしています。今日は、朝、初詣から帰ってきた二男とつれ合いの3人で、お雑煮を食べ、少し、掃除の続きをして、昼から映画を見に行ってきました。夏と正月は、家族で映画に見るのが、いつもの習わしになっています。いつもは、奈良か富山のシネコンですが、ことしは自宅近くのMOVIXです。午前中にパソコンで、ぱぱっと予約してです。
見に行ったのは「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」です。いつも、ポッターは見に行っています。面白いですよね、このシリーズ。早く次を見たいですね。不思議なのですが、つれ合いは、このハラハラ・ドキドキのシリーズで、いつも眠ってしまいます。今回はと言えば、やはり、少し、意識が中断したとか…。
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