ほとぼりを辞書で引くと、(1)まだ残っている熱。余熱。ほとおり。 (2)高まった感情が尾を引いて残っていること。ほとおり。 (3)事件などに対する世人の関心。とでてきます。消されることのない、思いとでも言えばいいのでしょうか。
さて、第3幕は、一転して舞台は日本。まず大阪での在日コリアンの日本帝国主義への抵抗運動が描かれます(ここで、知人の俳優さん=ricoさんが登場します)
さらに舞台は、尹奉吉が秘密裏に処刑される金沢へ。在日コリアン家族の葛藤を織り交ぜて、その思いが胸を打ちます。
日本の朝鮮支配への憤りと独立への思い、たたかい、それは、消えることのない熱りとして、ラストシーンに展開されていきます。ラストは、少しわかりにくかったのですが、独立への思いを胸に、重慶にうつった臨時政府を探して、在日コリアンの兵士が脱走してくる、その手にはやけどのあとが、これは象徴的です。
今年は戦後60年。活字を生業にする人間としても、いろいろなことを考えとりくんだ1年でした。文化面でも、パッチギからはじまって、最近で言えば、白バラの祈りまでたくさんの感動も味わいました。ただ、こと歴史認識については、『嫌韓流』に代表されるようにひどい目にも直面しました。そうしたなかでのこの舞台です。今年、最高ランクの感動をもらいました。
芝居としても、テンポのいい展開で、2時間半があっという間にすぎさっていき、成功した内容だと思います。なによりも、韓国公演をへた後だけに、作り手たちの意気込みが伝わってきます(韓国の人たちからの温かいサンゲタン付きで!)。
もちろん、ラストなど注文もないわけではありません。が、問題なのはなぜ、この舞台が東京で1ステージなのかなのです。たしかに難解な面があります。速いテンポで、人物をつかみにくいなどの評価も聞こえてきます。が、たぶん、歴史的な背景が残念ながら、なかなか今の日本では共通されないという問題なのだと思います。逆に説明を入れれば、感動は半減します。演劇が、作り手と受け手との共同作業であるならば、むしろ、これは、受け手の側が暮らす、社会的文化的な状況の問題です。そのことそのものを問わなければなりません。
尹奉吉にしても、李奉昌にしても、韓国では小学校の教科書にも登場するだれもが知っている人物です。隣国となぜ歴史がこれほどまでに共有されないのか?
それをふくめ、こうした舞台をつくりあげた人たちに感謝の思いでいっぱいです。センポスギハラから尹奉吉へとたどった作者の思いは、来年は、亀戸事件にたどりつくそうです。朝鮮人と労働運動の闘士たちを虐殺した1923年の亀戸事件。戦前の日本自体にメスを入れようと言うのでしょうか。平沢計七の物語の舞台化。いまから、期待に胸が膨らみます。
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