10代の事件が続くが
今日も、高校生が学校で同級生を刺すという事件があった。教室に爆弾を投げ込んだという事件、父母を殺害し家を爆発させたとされる事件、兄を殴り殺したという事件などが続く。マスコミはセンセーショナルにこれらの事件を報道し、その背景をさぐる。
事件となる背景は、それぞれ個別に大きな問題をかかえていることが多い。しかし、たとえば、それぞれの家庭事情の問題など、個別的な問題をこんなにもセンセーショナルに追いかけることが本当に、どれだけ重要なのか(まったく意味がないとは思わないが)。しかも、個別の原因の究明は、その個別の原因の抑止、つまり厳罰による対策などに、むすびつきがちでもある。報道により、問題をミスリードすることはないのだろうか。
個別に光をあてる、その当て方はあくまでも大人の目線である。もっと、子どもの目線で物事を考える必要はないのか。子どもの生きずらさをもっと子どもの目線で見つめていく必要はないのか。事件報道と違った目線での議論も広がらないといけないと思う。
« 空疎な沖縄論でした | トップページ | 金沢八景へ »
「教育」カテゴリの記事
- 「七生『性教育バッシング』から20年-勝利判決から10年 『包括的性教育』の実現めざす集会」、「格差を広げる観点別評価」と「教員政策と長時間労働」(2023.11.25)
- プーチンとゼレンスキー ロシアとウクライナの100年(2023.11.23)
- 「チェーサーが終わる日 -在日コリアン 世代を越える葛藤-」(2023.11.18)
- 国立大学法人法の改正案、衆院委で可決 大学自治尊重など付帯決議も(2023.11.17)
- 学問の自由脅かす…国立大法改正案に反対集会 15日委員会採決か(2023.11.14)
« 空疎な沖縄論でした | トップページ | 金沢八景へ »
コメント