花岡事件60年
今日は、花岡事件から60年。1942年11月、労働力不足を解消するため東条内閣は、「華人労務者内地移入の件」という閣議決定をおこない国策として中国人強制連行をすすめた。秋田県花岡町にあった花岡鉱業所の土木部門を請け負っていたのが当事の鹿島組(現鹿島)で、986名の中国人が強制連行され、苦役を強いられた。45年6月30日、過酷な労働と虐待に耐えかね、いっせい蜂起が起こったが憲兵隊や警察などに鎮圧されたという事件だ。
現在、大館市のホームページには、この事件について、以下のような記述がある。
作業所での扱いは過酷なもので、補導員の中には指導の名のもとに激しい暴行を加える者もいて、加えて敗戦直前の時期から国内の食糧事情の悪化が彼らの上にも重くのしかかり、耐えがたい暴行と空腹で精神に異常をきたす者もでました。「中山寮」に強制連行された979人のうち137人が死亡し、更に暴行や栄養不良で身動きできない重症者が多くいました。餓死か、暴行によって殺されるか、という状況の中で、耿諄大隊長ほか7人の幹部は「このままではみんな殺されてしまう。もはや一日も忍耐できない、蜂起するしかない」と考えました。寮内の動きを調べ、蜂起は6月30日の真夜中と決定。しかし、計画が知れわたると規制がきかない者もでてきて統制は大きく崩れ、以後の組織的行動は不可能となりました。とりあえず逃走命令を発しそれぞれ逃げましたが、重症者の一群は神山付近で最初に捕まり、次に身体の弱っている一群が旧松峰付近で捕まってしまい、残る主力集団約300人も獅子ケ森山中に逃げ込み抵抗はしたものの食糧も水も無く力尽き次々と捕らえられてしまいました。
捕まった者たちは7月1、2、3日と共楽館前広場に炎天下のもと数珠繋ぎに縛られ、座ったままの姿勢でさらされました。3日の夜に雨が降ったため何人かは死なずにすみましたが、大勢が亡くなりました。
死体は10日間も放置されたあと、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で三つの大きな穴が掘られ埋められました。この後も中国人の悲惨な状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が亡くなりました。
今日、大館市と、中国の2カ所で追悼の集いがもたらたという。2000年に和解が成立し、鹿島はその責任を認め賠償に応じている。しかし、国策としての中国人強制連行にはいまだ、謝罪も賠償もない。
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