教育基本法をどう論議するか
先週から通常国会がはじまりました。いろいろ課題の多い国会ですが、私個人の最大関心事は、憲法「改正」にかかわる、国会法の改定、国民投票法の制定のどうこうです。そして、憲法調査会の報告がどのようになっていくのかです。
現在の憲法「改正」の動向については、『前衛』2月号に、一橋大学の渡辺治さんの「自民党憲法改正草案は何をねらうか」という論考が、わかりやすくていいと思います。自民党の案、民主党の案そして、先日の日本経団連の意見書を読めば、改憲勢力の焦眉の、最大の目的が、アメリカがすすめる戦争戦略に日本が参加していくため憲法9条「改正」にあることは、まじめに考えれば明らかだと思います。同時、改憲の流れそのものの長期の目標としては、21世紀の国際競争にうち勝っていく社会をつくっていくための国家像をしめすこともあるのだろうと思います。
憲法を議論をみると、改憲勢力からは、かなり意図的な復古主義的な議論が出されます。表裏一体の国家主義、国民の基本的権利の制限を達成するねらいとともに、経済格差のひろがりのもとで、国民のあいだいにある社会への不安感をとりこんでいく装置としての意味合いが強いように感じます。
そこでややこしいのが、教育基本法「改正」をめぐる議論です。改正の議論は、その推進派から、民主的な西村議員の「お国のために血を流す人間をつくる」という発言があるように、きわだって復古的な発言がなされます。愛国心をその議論の焦点にもっていこうとするところも、意図的なものを感じます。8割をそのような議論がしめる一方で、その内容を見れば、国家と教育の関係を逆転させ、教育の内容に全面的に介入していこうという、あたらしい種類の国家主義に色どられているのです。日本経団連が先日発表した(憲法の意見書と同じ日に発表しているのですね)提言を見れば、推進勢力の一番の本音がわかるような気がします。国際競争にうち勝ち、国際貢献ができる(アメリカの戦争に参加できる)国にふさわしい人づくりをすすめたいのでしょうね。しかし、その本音とは相対的に別に、突出した形で、復古的な議論がなされ、東京のような異常な事態がつくられる。
もう1つむずかしいのは、現実にある子どもの「荒れ」や学力低下の問題とのからみです。こうした背景には、現在の階層格差の問題が横たわっているように思うのですが、こうした問題も教育基本法改悪の口実にされていると言う問題です。しかし学力の問題1つをとっても、さまざまな議論がなされています。先日9日の教科研の集会では、田中孝彦委員長が、意見の違いを包み込んだ運動をすすめようとよびかけました。たしかに、そうなのです。が、しかし、一方で、国民のあいだにある問題行動や学力低下にたいしての不安感をどう受けとめるかも考えなければなりません。
まだまだ、教育基本法の問題は、議論が不十分な気がします。急速に運動を高めながら、一方で、より豊かな議論をどうすすめるのか。私たちに課せられた大きな課題でもあるように思うのですが、いかがでしょうか。
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