誰が「問題児」を作るのか
今日も暑かったと、同じ書き出し。ほんと、つらいよね。
つらいといえば、あさから「あんぱん」がつらすぎる……。リンくん、岩男さん……。あまりにも悲しくって。
なるほど、かわらない、誰もが同意できる普遍的な価値。それがいま求められている。そういうことをこれまで、ボクらはいろいろな試行錯誤のうえに、積み重ねてきた。胸にしみる……。
今日はゲラの動かし。来月相談。来月インタビュー①の資料。それがまた、胸にずっしりくる。
正直、ものすごい重い気持ちを引きずりながら、生きている感じ。ほんとに生きることはたいへんだ。この年になって、それをしょい込むのはだいぶつらい……。
今日の朝日のオピニオン欄は、関テレのプロデューサー・迫川さん。
誰が「問題児」を作るのか 映画「みんなの学校」で伝えたかったこと
障害がある子も、「問題児」とされる子も、みんなが同じ教室で過ごす。そんなドキュメンタリー映画を製作した関西テレビ放送プロデューサーの迫川緑さんは、映画の見られ方に違和感を抱いたと言います。伝えたかったこと、伝わらなかったこととは。◇
排除のない教室で起きたこと
困難を抱える人を目にした時、「支えてあげたい」と思う人は多いでしょう。様々な分野で、当事者の声を受けた支援も広がっています。一方で、私たちは「困難を生んでいるものは何か」を問い、困難を生む社会のあり方を変えようと考えることができなくなっているように感じます。10年ほど前、大阪市内の公立小を舞台にした「みんなの学校」というドキュメンタリー映画の製作に携わりました。伝えたかったのは、「分けない」ことでした。この学校では、障害児も「問題児」とされる子も、みんなが同じ教室で過ごしていました。他の学校では異質な存在となってしまう子であっても、排除のない教室では、子どもたちが「当たり前の存在」と受け止めます。「子どもを育む場で誰も排除されるべきではない」「誰も排除しない場こそ、誰もが安心して過ごせる場なんだ」という思いを込めました。……
「みんなの学校」については、インクルーシブ教育にかかわって、いろいろな議論があった。だけど、映画を見たり、実際に何度か見学に行った相方に話を聞いたりして、かなりの条件整備も、自由度もあり、そのなかで、考えさせられる面もあるのはそうだろうし、一方で、専門性などをめぐっての限界などもそうだとは思う。その考えさせられる面は、やはり、よくみておきたい。
迫川さんの次の言葉は、そのとおりだと思うけど。「気になるのは、当事者の声を数多く聞いているはずのメディアの思考が表層的で、凝り固まっていることです。例えば、フリースクールや子ども食堂を「多様な学び」「多様な居場所」と評価するだけに終始しているように感じます。不登校や貧困を生む今の社会システムに対し、「おかしい」という素朴で根源的な疑問を抱くことができなくなっているのかもしれません」と。
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